【虹色の悲しみ】
私と夏樹は正直、文目氏をナメていた。
その日の夕方には「あの夜は半月でしたから同じように半月が良いでしょうねえ」と言う文目氏から日時を知らせる電話が入った。
後日、文目氏は夏樹の花束の内訳をリサーチしにやって来た。花の種類まで同じにしたいのだと言う。
夏樹のバイト先の花屋に行き、どういうわけだか何の花を買ったのかすっかりぽっかり忘れていた夏樹を焚きつけてなんとか種類を特定し、大量の花を買い占める文目氏を見て怯えた。
「文目さんって実はお金持ち……?」
「札束の山が……」
残るは大問題、夏樹のご両親にどうやって説明するかと悩んでいたのだが、お二人は文目氏がプレゼントした一泊二日の温泉旅行券であっさりと旅立ってしまった。
そこまでやるとは文目氏、本気だ。
そしていよいよ『八月の鯨会』降霊会、もとい鯨寄せ会当日がやってきた。
「うーん、鯨寄会……?」
語呂が悪いな。
「何ぶつぶつ言ってんの、あざみ」
「いや、別に。にしてもすごいね」
「うん。まさかここまでとは」
夏樹の家の屋根の上には、私と夏樹と文目氏の他、十数人くらいの人が乗っていた。皆さん『八月の鯨会』のメンバーである。
あちこちでおしゃべりが始まってわいわい、がやがやと賑わっている。
夜食のおにぎりなども振る舞われてまるでピクニックのような騒ぎだ。
その他にも屋根の上には黒いビニール袋が数個。中身は全部花びらである。あの日私と夏樹がばら撒いたのと同じ花だ。
夜空にはあの日と同じ半月。欠けているのはあの日とは反対側だが。
そしてあの日と同じ時間まであともう少し。
「屋根、抜けないよね?」
「この人数ならまだ……」
私と夏樹は屋根の隅っこでこそこそ会話している。
先ほど、「あらっ可愛らしいお嬢ちゃんねえ!」「あなたは何日生まれ?」「あらボクもカワイイじゃない!」「二人はどんな関係なの?」という怒濤の質問攻めから命からがら逃げ出してきたところなのだ。
おかげで知りたかったことはわかったからいいけど。
「文目さん、最近奥さんが亡くなったんだってね」
食べてほしいことってそのことなのかなあ、と私は呟く。
屋根の端には文目氏が灰色のスーツ姿で、指揮者みたいに凛々しく立っている。なかなか格好良い。
隣の夏樹の反応がないのでちらりと視線をやると、なにやら難しい顔をしていた。
「ちょっと、なんであんたが落ち込んでるの?」
「いや、落ち込んでるんじゃないんだけど……なんか俺、文目さんと会ったことある気がするんだよなあ」
うーん、と夏樹が悩んでいる。
「道ですれ違ったとかじゃないの?」
「いや、もっと別の……」
柄にもなく悩み続ける彼を前に、そういえば、と私は思い出した。
「今回ふられた子はどんな子だったの?」
「へ?」
「もったいぶってないでいい加減教えなさいよ」
ほらほら、と肘でつついてやる。
「えーと、待てよ……その辺もなんか曖昧なんだよなあ……」
「あ、花撒き始めた」
「って、おい! お前が教えろって言ったから考えてんじゃないか!」
あーもうわかんなくなってきたから止め止め! と夏樹がぶんぶん頭を振る。
私はそれを笑いながら眺め、花びらに視線を移した。
赤、ピンク、オレンジ、黄色……大量の花びらが夜空に散っていく。
「きれー……」
「少女趣味」
「うるさい」
軽く睨んでやると夏樹がけらけら笑った。
そこへ、ごうっと風が鳴り、黒い影が夜空に翻った。
鯨だ! という声。私の目も夜空に横たわる鯨の巨体を捉えていた。隣で夏樹がきょとん、とした顔をしている。
「いるの?」
「いる」
夏樹に返事をした瞬間、鯨と目が合った。ガラス玉みたいな目が私を捉える。
あ、やばい。と直感で悟った。
しゅる、と背中で音がする。いや、背中じゃない。首筋だ。肩越しに淡く発光する物体が見えた。
「ちょ、ちょっと待って!」
なぜ私に来る、鯨!
周囲からはわあだのきゃあだの悲鳴のような声が上がる中、夏樹だけがやはりきょとんとした顔をしている。見えていないのだろう。
それは置いておくとしても、この状況は困る。私には食べられたいものなんてないのだ。
しかし私から抜け出した物体はみるみるうちに大きくなり、あの日のような虹色に渦巻く球体になった。
ふわり、と上空に昇っていく。真上には鯨。
――冗談じゃない。
「ちょっと待ったっ!」
私は必死で、その虹色の球体――文目氏が言うところの『悲しみ』を両手で掴んだ。
そしたら、私の体はふわりと浮いた。
「ええええっ」
待て、そりゃあ高いところは嫌いじゃないけど、浮かれたって困る!
夏樹が慌てた声で私の名前を呼んでいる。
これは見えるんだ。なるほど……妙なところで冷静なのはたぶん現実逃避だろう。
いつの間にか私は飛び降りるのはきつい高さに浮かび上がっており、下は大騒ぎになっている。
まあこれを離す気はないからどのみち飛び降りるのは無理なんだけど。
そんなことを考えていると、鯨が近づいてきた。
漆黒の体。青い瞳がぎょろりと私を睨む。
『何しに来たんだ、オマエ』
と言っているようだ。
「ちょっと、私を下ろしなさいよっ!」
私は必死で叫んだ。
「私には食べてほしい『悲しみ』なんてないんだから、他の人のを食べなさいよ!」
『ふうん、ホントにそうかな?』
とでも言いたげに鯨が目を細めた。
この至近距離であんな大きな目を細められても怖い。
『その中身をオマエはわかってるのか?』
えーい、うるさいな。わかってるよ。と私も目で返した。
この中に入ってるのは私の夏樹に対する恋心だ。
そして同時に、いつまでたっても気づいてもらえない悲しみ、だ。
でもそんな感傷は正直言って好きじゃない。
「ネタは割れてんのよ! あんたが食べてるのは『悲しみ』じゃなくて『記憶』でしょ!夏樹がふられた女の子のことを綺麗さっぱり忘れてるのがその証拠よ! ふられた後半日は私を相手にくどくどくどくど愚痴を言い続けるあの夏樹がよ?」
あんたの彼女がいかに可愛く素敵だったかなんて聞きたくないっていうのに、人の気も知らないで毎度毎度よくもまあ……というのは口に出さないでおくけど。
鯨が不可解そうに眉をひそめた。
もっとも鯨に眉はないから、私がそう感じただけだけれど。
「私はこの『記憶』を食べられちゃ困るのよ! さあ離せ、鯨っ」
『ちぇ、しょーがねえなあ』
とでも言いたげに、鯨が瞳を揺らした。
次の瞬間、私の手の中にあった球体が消え、私の体は落下していた。
私は奇声をあげながら、夏樹や文目氏、その他諸々の『八月の鯨会』メンバーの人間クッションの上に落っこちた。
「大丈夫かあざみっ!」
という夏樹の声を無視し、
「殺す気か!」
私は上空を見上げ叫んだ。
『仕返しだよ』と鯨がにやりと笑った、ような気がした。次の瞬間。
しゅるしゅるという音が辺り一面から鳴り響き、あっという間に大量の虹色の球体が出現し、ふわふわと宙に昇っていった。
間違って大量の風船を手放してしまったような眺め。
七色の渦を巻いた球体が夜空を昇っていく。
虹色の悲しみ。
遙か上空で鯨が大口を開けて待っている。
皆が呆然とそれを見上げている中、
「あざみ」
夏樹が近くまで来ていた。
「見える?」
「いや、ぜーんぜん」
その答えがおかしくて笑ってしまった。
「何だよ、悪かったな」
「ごめんごめん。うーんと、虹色に光る風船が夜空に昇っていってるの。とても綺麗よ」
それはそれは、と夏樹が頷いた。
「あざみが好きそうだ」
結局そういうことを言われると許してしまうんだけど……惚れた弱みというやつですかね。
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