【八月の鯨会】
さっきのは何だったんだろう、という謎を抱えたまま屋根から下りると、夏樹の家の玄関前がなにやら騒がしい。
様子を見に行ってみると、十数人くらいの見知らぬ人が集まってわいわいがやがや言っている。
時刻は深夜一時を回ったところである。
「あのー、何かあったんすか」
困った夏樹が声をかけると、堰を切ったように質問が飛んできた。
「今、鯨を見なかったか?」
「この辺に現れたはずなんだ!」
「あなた八月生まれじゃない?」
他にもあれやこれやと声が飛んできて、私と夏樹はどうしよう……と言わんばかりに顔を見合わせた。そこへ、
「まあまあ皆さん落ち着いて」
という穏やかな声が響いた。人の群れを掻き分けて現れたのは、灰色のスーツを着た初老の紳士だった。
「はちがつのくじらかい」
夏樹が間抜けな声で老紳士に渡された名刺を読み上げる。
「左様」
老紳士が大仰に頷いた。彼に貰った名刺には『八月の鯨会 代表 文目史彦』とある。アヤメフミヒコ、と読むらしい。
昨夜、老紳士は今日はもう遅いから明日にしようと騒ぐ人々を静め、
「お二人は鯨をご覧になりませんでしたか」
嘘を許さない口調で私と夏樹に尋ねた。
私が頷くと彼は不思議な微笑を浮かべ、
「お嬢さんは八月生まれですね?」
と言った。
私が再び頷くと、「では詳しい事情を説明しいたしましょう」と駅前の喫茶店を指定され、現在に至るというわけである。
私は文目氏に自分と夏樹を紹介し、昨夜のことを簡単に説明した。
「鯨っていうのは、夜空を飛ぶ青いガラス玉みたいな目をした大きな鯨のことですよね?」
「そうです。それがワタクシどもが探し求めている『八月の鯨』です」
写真はないですが絵はあります、と文目氏が黒革の手帳の中から大きめの紙を取り出した。
カラーコピーらしいが、そこに描かれていたのは大きな鯨。黒い体躯。ガラス玉みたいな大きな瞳。
「これです! 間違いない!」
私が断言すると文目氏は満足そうに頷いた。
へえ、と興味深そうな顔で夏樹が絵をのぞき込んでいる。
「昨夜、鯨の目撃情報がありましたので付近を探しておりましたら、お宅の上空で偶然発見しましてね。思わず押しかけてしまったのです。ご迷惑をおかけしました」
文目氏が謝罪の言葉を述べ、気にしなくていいですよと夏樹が言う。
私は奢ってもらったケーキセットの最後の一切れを口に押し込んで尋ねた。
「それで文目さん。この鯨、何なんですか?」
「お嬢さんはこれをご覧になった幸運な方ですからね。お話ししても良いでしょう」
この鯨はですね、『八月の鯨』の名の通り、八月にしか現れず、しかも八月生まれにしか見えない鯨なのです。
黙ってしまった私と夏樹を見て、
「……実際に見た方でないとなかなか信じてもらえないのですがね」
文目氏が苦笑いしながら言った。そこへ、
「す……っげえー!」
いきなり夏樹が大声をあげて沈黙を破った。
「これが飛んでんの? マジ? いいなあざみ、俺も八月に生まれたかったー!」
落ち着け夏樹。私だけじゃなく文目氏も軽く引いてるから。
「素直な方ですねえ」
「単純なだけだと思いますけど……私も信じますよ。実際にこの目で見たし」
文目氏はにっこり笑ってありがとう、と言った。
「でもなぜ文目さんは『八月の鯨』を探してるんですか?」
「ワタクシだけではありません。八月の鯨会にはメンバーが二十人ほどおりますね。特に今は八月ですから皆大忙しで」
おっと話が逸れました、と文目氏は笑って、真面目な顔つきになった。
「ワタクシどもが『八月の鯨』を探しておりますのは、『八月の鯨』が人間の悲しみを食べてくれると言われているからなんです」
顔に疑問符を浮かべた私と夏樹を見た文目氏はちらりと笑い、少し長くなりますがと前置きしてこんな話を始めた。
昔あるところに青年実業家がおりました。
彼が興した会社は小さいながらも成功し、事業は順調、彼は素敵な奥さんも迎えてたいへん幸せそうでした。
ところがある日、不幸な偶然が重なってあっという間に会社は倒産。奥さんにも逃げられ、無職・無一文になった彼は途方に暮れました。 絶望のあまり死んでしまおうかと考えましたが、そんなとき彼は鯨に出会ったのです。
鯨は彼の悲しみをしゅるしゅると吸い出してぱくっと食べてしまいました。
すると彼はとっても気持ちが楽になり、生きる気力を取り戻したのです。
「……という話があるのです。他にもいくつかお話しましょうか?」
「聞きたい!」
「夏樹はちょっと黙ってて。文目さん、気になったことがあるんですけど」
はい何でしょう、と文目氏は私を促した。
「その悲しみをしゅるしゅると吸い出すっていうのは……」
「ああ。そうですねえ、うなじの辺りから七色に光る糸のようなものが出てきまして、それが集まって丸くなり、最初はビー玉くらいの大きさなんですが……」
「最後には風船くらいの大きさになって空に昇っていって、鯨に食べられちゃうんじゃありません?」
「おや、お嬢さん『食べられ』たんですか?」
「いえ、『食べられ』たのはこっち」
言いながら私は夏樹を指さした。
「ええっ、聞いてないよ俺!」
言ってないからね。
「ほう、八月生まれ以外の『悲しみ』も食べられるんですねえ。夏樹君、生まれは何月何日ですか」
「え、六月三十日ですが」
「『食べられ』た後、何か変化はありましたか?」
「うーん、そういえば気分が晴れたような気はしたけどなー。単にすっきりしたからだと思ってたんだけど違うのかな」
「ほうほう。いや、興味深い情報です。ありがとうございます」
「いえいえ」
鯨の生態に関してはまだほとんど判っていないのです、と文目氏がため息をつきながら言った。
「八月生まれにしか見えないこと、八月にしか現れないこと、夜にしか現れないこと、人間の悲しみを食べること、あと花も食べるようです。お嬢さんの話でもそうでしたね?」
「そうです。花びらをむしゃむしゃ食べてました」
「茎や葉っぱを食べ残したという報告もありますので、ひょっとしたら花びらが好きなのかもしれませんな」
文目氏は楽しそうに笑った。
「ところでお二人に折り入ってお願いがあるのですが」
「はい」
「何でしょう」
「ワタクシどもは鯨を呼び寄せるために降霊会のようなものもやっているのですが――どうでしょう、夏樹君の家の屋根の上でこの前の夜にやったことを再現して頂くわけにはいかないでしょうか?」
文目氏の申し出に私と彼は顔を見合わせた。
「どのような条件で鯨が現れるのか、わずかでも情報が欲しいのです。鯨が現れる可能性があるなら何でも試してみたいのです」
ワタクシはどうしても鯨に会いたいのです――と文目氏が真剣な顔と声で言った。
私はいいけど、と夏樹に視線を送る。よし、なんとかする。と彼が目で言った。アイコンタクト終了。
「わかりました文目さん、やりましょう」
私が言うと、文目氏は机と椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がり、ありがとうありがとうと言いながら私の手をとってぶんぶんと振った。私の次に夏樹も同じことをやられていた。
では詳細は後ほど、と言い残し、電話番号を交換して文目氏と別れた。
「文目さん。悲しみを食べられると、具体的にはどうなっちゃうんですか?」
別れ際に気になったことを聞いてみたが、文目氏は笑っただけで答えてくれなかった。
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