八月の鯨


 【八月四日】



 机の上に置いた携帯電話が振動して、私は読みかけの本を持ったままベッドから降り、それを手に取った。
 時刻は十二時を回っている。誰よこんな時間に、と思いながらディスプレイを見るとよく知った名前だった。
 ……仕方ない。
「はいはい?」
『起きてた?勉強中?』
 聞こえてきたのは耳に馴染んだ低い声。隣に住む幼なじみである。
「起きてたよ。本読んでた。何、こんな時間に」
『あのさ、屋根の上にいるから来てほしいんだけど』
「はあ? ちょっと夏樹……」
 最後まで文句を言う前に切れた。仕方ないなあ、と呟きながら階段を下りる。
 階下はすっかり寝静まっている。音を立てないように玄関のドアを開けると、むわっとした夏の空気が全身を包んだ。
 静かにドアを閉め、鍵をかける。
「失礼しまーす」
 と小声で言いながら明かりの消えた隣家の敷地内に進入し、庭に回る。
 そこにはハシゴが立てかけてあった。ぎしぎし鳴るそれを慎重に上り、屋根の上に顔を出すと、見慣れた背中が見えた。
「夏樹、なつきー」
 小声で呼ぶ。おう、と陽気に返事をしてやってきた彼は私の手を掴んで屋根に引っ張り上げた。
 本当は自力でも上がれるのだけど、そこは打算というか役得というか。
「あざみなら起きてると思ったんだよな。宵っ張りだから」
 夏樹はにこにこ笑いながらそう言った。
 あざみというのは私の名前である。夏樹は同い年の幼なじみだ。
「まあ起きてたけどね。で、何の用なのか説明しなさいよ」
「今からする。ちょっと手伝って」
 夏樹は言いながら屋根の上の安定の良い場所に移動していく。
 私もその後を追う。やがて彼は立ち止まりその場に座り込んだ。
 手元にはやや大きめの花束が置いてある。ただしラッピングは剥がされ、花は一本一本ばらばらになっているが。
「どうしたのそれ。売れ残り?」
 夏樹は花屋でバイトをしているのである。男の子にしては珍しいのではないかと思う。
「失礼な。ちゃんと買ったやつだよ」
 言いながら夏樹はバラの花を一本手に取り、花びらをむしり始めた。
「……何してんの?」
「撒く。手伝って」
 きょとんとした私の問いに、夏樹は平然と答えて催促した。
 仕方がないので彼の正面に座り込み、バラの花を手に取る。
 それにしてもやっぱりちょっと勿体ないよ、と思いながらもう一度尋ねた。
「で、どうしたの?」
「うん?ふられた」
「……またか」
「またかって何だよ。あのねえ、もう俺はがっかりしたよ!この花束いくらしたと思ってんの、六千円だよろくせんえん!」
 花びらをむしりながらぶつぶつ言っている夏樹を、私は声をあげて笑い飛ばす。
「その惚れっぽいの、いい加減何とかしなよねえ」
「うーん、仕方ないでしょ」
 性分だよ性分、と夏樹が苦笑いする。
「でもこれで何回目よ? 少なくとも十回はつきあってるわよ、私」
 しかし問題は回数ではなく態度というか……ふられるたびに毎度のごとく呼び出され、逃げようとすると服の裾を持って引き留められ、朝から夕方まで延々と愚痴を聞かされるこちらの身にもなってほしい。
 その上こちらの気持ちに微塵も気づいていないというのがさらに腹立たしい。
「俺も何度目か覚えてないや。いつもあざみサマには感謝しております、ハイ」
「はいはい。ラスト一本」
「へーい」
 ぶちぶちと花びらをむしり取る夏樹を視界の隅にいれつつ、私は屋根の上から町を見下ろした。
 この屋根もそこまで高いところにはないが、周りに高いビルやマンションがないので見晴らしは良い。
 見上げると半月があった。あんまり星は見えない。黒い空には灰色の雲が浮かんでいる。
 じっとしているとじりじりと汗ばんでくるような夏の夜だ。
 終わり、という夏樹の声に目線をやると、山のような花びらが積まれたラッピングの包装紙を持って立ち上がったところだった。
 湿った夜風に吹かれて花びらが一枚二枚飛ばされていく。
「さあ撒くぞっ」
 とうっ、などというかけ声と共に、片手でつかんだ花びらを屋根の上からばら撒く。土俵に塩を撒くみたいに。
 夏樹は楽しそうにしているが、一応これでも十八の男のはずだけれども……。
「何、あざみ、その目」
「いえ、なんでも」
「ふーん……あざみもやれば?」
 釈然としない口調の夏樹に言われて、私も花びらの山をひとつかみして空に投げる。
 赤やピンク、オレンジや黄色の花びらが風に乗って流れ、すぐに夜の闇に溶けて見えなくなる。
 白い花びらがあれば闇夜に映えてさぞかし綺麗だろうな、とちらりと思った。
 にしても豪華な花束だ。奮発したなあ、夏樹。
 ……一瞬嫉妬しそうになった自分を頑張って自制する。
「ねえねえ、なんで撒くことにしたの?」
「花束勿体ないし。あざみにやろうかと思ったけどお前怒ったじゃん。前に」
 当たり前だ。他の女にやろうとした花束をいらなくなったからやると言われて誰が喜ぶというのか。
 しかもそれに一瞬でもときめいた自分が腹立たしい。
「あと、あざみ好きでしょ。こういう少女趣味」
 にひひ、と笑って夏樹が言った。
「……少女趣味は余計」
 うー、悔しいけど嬉しいから負けを認めてやってもいい……なんて思っていると、いきなり周囲が陰った。
 雲かな? と思って空を見上げると、
 

 そこには黒々とした長い物体が横たわっていた。


 ……気のせいかな?と思って瞬きをひとつ。
 まじまじと見てみると、物体の先の方に尻尾が見えた。尾の先が二つに分れている。
 反対の先は頭があるようだ。私の頭上にある黒々した物体はお腹らしい。
 それは、ばかでかい鯨の形をしていた。
「わああああっ!」
「何、あざみ。うるさいよ」
「だって上、上っ!」
 必死で上を指すが、夏樹はちらりと視線を送っただけで、雲があるだけじゃんと不思議そうに言った。
 夏樹には見えていない?ならばあれは私にしか見えていない幻なのだろうか?
 様々な疑問符が頭の中を飛び交う中、鯨が動いた。
 大きく体をしならせて半回転し、私の数メートル手前を泳いで行く。
 泳ぎながらその大きな口を開き、私たちが撒いた花びらを食べる。鯨の巨体によって夏の空気が攪拌され、風が起こる。
 すれ違いざま、鯨のガラス玉みたいな青い大きな目が『なんだよ、オレが見えるのか?』とでも言いたげに私を捉えた。
「おおっ、すげえ風」
 夏樹がのんきに言う。
 風じゃないよ! 鯨だっつうのに!
 と叫びたかったが私は声をあげることすらできず口をぱくぱくさせていた。
 それからもうひとつ、目の前で信じられないことが起こった。
 隣にいる夏樹の首筋、うなじの辺りから、しゅるしゅると何かが抜け出したのである。
 淡く発光する丸いかたまり。
 その表面は赤や青や黄色やオレンジの虹色のマーブル模様が描かれ、ぐるぐると巡っている。
 それは目の前で風船くらいの大きさになり、空に昇って行った。
 ぽかんとして行方を見守っていると、ふいとどこからともなく先ほどの鯨が泳いで来た。
「あ」
 声を上げる間もなく、鯨はその虹色の物体をぱくんと呑み込んだ。
 それからまたガラス玉のような瞳で私を見下ろすと空の彼方に泳いで行ってしまった。
「……どしたの、あざみ」
 気づいたときには不思議そうに眉をひそめて夏樹が私を見ていた。



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