【八月の鯨】



 夜が明けて朝がやってきた。
 八月の鯨会の人たちは、どこか晴れ晴れとした顔で庭に散らばった花びらを掃除している。
「文目さん」
 私は庭の片隅に立っている老紳士に声をかけた。
「はい、何でしょう」
「以前話してくれた青年実業家の話、あれ文目さんじゃないですか?」
 文目氏はにっこりと笑った。
「よくわかりましたねえ」
「なんとなく、です。文目さんの説明が見てきたみたいに的確だったし。それにさっきのを見てたら、文目さんと鯨が初対面じゃないっていうのがわかりましたから」
「おやおや、お恥ずかしい。見られていましたか」
 と文目氏は笑った。
 虹色の悲しみが浮かび上がる中で、文目氏と鯨は見つめ合っていた。
 鯨の目は優しく細められていて『よう、元気してたか?』と言っているようだったし、鯨を見る文目氏も懐かしげな目をしていた。
 それは一枚の絵のような、不思議に優しい空気をまとっていた。
「それと……文目さん、夏樹と前から知り合いだったでしょう?」
 私がそう言ったら、文目氏が目を丸くして驚いた顔をした。
 お、ちょっと快感。
「どうしてそう思ったんです?」
「夏樹が『文目さんとどこかで会った気がする』って言ってたのがヒントだったんですけどね――喫茶店で会った日、覚えてます?」
 あの日、文目氏は初対面の私のことは『お嬢さん』と呼んだが、同じく初対面のはずの夏樹のことは『夏樹君』と名前で呼んだのだ。
 それが少し不自然で、頭の隅にひっかかっていたのである。
「それで、お、これは?と思って。当たりでしたか?」
「大当たりですねえ」
 と言って文目氏は苦笑いした。
「隠しておくつもりではなかったんですが、彼が『食べられた』のならその方が良いと思ったんですよ」
「じゃあ夏樹の『悲しみ』は文目さんに関係のあることなんですね?」
「そうです」
 文目氏は頷き、正確にはワタクシの妻とです。と語り始めた。


 ワタクシの妻はガンに冒されておりましてね、余命いくばくもありませんでした。
 妻は花が好きでしてね、元気だった頃はよく花屋に通っていたのですよ。
 そこで夏樹君と仲良くなったのです。
 妻が入院してからも夏樹君は頻繁にお見舞いに来てくれました。
 ただの花屋の客になぜここまで良くしてくれるのか、と聞いたら、
「俺、ばあちゃん子だったんだけど、小さい頃に死んじゃったから。俺のばあちゃんによく似てるんだよなあ」
 と言われましてねえ。
 おや、そんな呆れた顔をしちゃいけませんよ。いい子ですね彼は。
 ワタクシも妻も夏樹君が大好きでしたよ。
 妻が亡くなる前日も夏樹君はお見舞いに来てくれましてねえ。意識のない妻の枕元で言うんですよ、
「ばあちゃん、俺が見ただけで元気になるような花束作ってきてやるからな!明日絶対持ってくるからな!」
 って。


「ああ、だから白い花がなかったんだ……」
 私は思わず呟いた。花びらを撒きながら、白い花びらがあったら夜空に映えるのにな、と思ったことを思い出したのだ。
 病室に白い花なんて縁起の良いものじゃないから、わざと外したのだろう。
 そうですねえ、と文目氏が頷いた。
「花束を受け取る前に妻は旅立ってしまいましたが……きっと天国で喜んでいるでしょう」
「だと、良いです」
「きっとそうです」
 私と文目氏は目を合わせて笑った。
「それから、もうひとつ。文目さん、『食べられ』てないですよね?」
 私の問いに、文目氏は微笑して頷いた。
 文目氏と対峙する鯨の目が優しく尋ねていた。
 『どうだい?また食ってやろうか?』と。
 文目氏は親しい友人を見るようにやわらかく目を細め、首を横に振ったのだった。
 文目氏の首筋から悲しみが抜け出ることはなかった。
「昔、ワタクシがどん底にいたとき、あの鯨はワタクシの辛くて苦しい記憶を全て消してくれました。ワタクシを裏切った前妻も、金を持ち逃げした社員たちも考えるだけで恨めしく忌まわしかった……だからワタクシは彼らのことを忘れることができて本当に助かったのです。
ですがワタクシは同時に、楽しかった記憶も忘れてしまいました。前妻と共に過ごした時間の幸福な記憶、会社の最初のプロジェクトが大成功したときの達成感――そんなことをね」
 文目氏は穏やかな表情で、淡々と語る。
「あの鯨に妻を亡くした悲しみを『食べ』てもらえば、確かにワタクシの悲しみは消えるでしょう。ですがそれと同時に、ワタクシと妻の幸福な記憶も消えてしまう。ワタクシがどん底から這い上がることが出来たのはひとつは鯨のおかげ、ひとつは妻のおかげなのです。悲しくてもこの記憶を無くしてはいけないとワタクシに気づかせて下さったのは、あなただ」
 ありがとう、と文目氏が私に頭を下げた。
「わ、私はそんな大したことしてないですよ! 鯨相手に好き勝手なこと言ってただけじゃないですか!」
 私の慌てっぷりを見て、頭を上げた文目氏が笑った。
 向こうで夏樹が私を呼ぶ声がした。
「あ、じゃあ呼ばれてるんで行きます!」
 私は文目氏に一礼して、彼の方に駆けて行く。
「あざみさん」
 名前を呼ばれて、振り返った。
「夏樹君と、うまくいくと良いですね?」
「……が、頑張ります!」
 私は慌ててそれだけ言って走り出した。
 くそー、最後の最後で意地悪だぞ文目氏!
「あざみあざみー」
 『八月の鯨会』のメンバーに囲まれた夏樹がひらひらと手を振っている。どうやら昨夜の話を聞いていたらしい。
「何っ!」
「あれ、怒ってんの? 顔赤いよ?」
 うるさいよ。つっこむな。
「昨日ホントにすごかったらしいじゃん、いいなあ俺も見たい」
「八月に生まれ直したら?」
「めちゃくちゃ言うなよなー。だからさ、俺『六月の鯨』探そうかなと思って」
「は?」
「『六月の鯨』なら俺にも見えるじゃん。だからあざみ、一緒に探してよ」
「……えーと、よく考えてよ夏樹。『六月の鯨』じゃ八月生まれの私には見えないでしょ」
「あ、そうか」
 夏の庭にどっと笑い声が響く。
 呆れたため息をつきながら夏の朝の空を見上げると、『いいなそれ、どうせならカワイイ女の子にしてくれよ』と笑いながら泳ぐ八月の鯨が見えた気がした。



                     Fin.



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