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 翌朝。休みをいいことに惰眠を貪っていた私の部屋にチャイムがやかましく鳴り響いた。
 なんだ、宅配便か? と思ってドアを開けると、そこには彼女が立っていた。
「はぁーい」
「……なんですか」
「手当てしてもらおうと思って。あたし包帯も消毒液も持ってないの」
 買いに行けよ、という瞬間的なつっこみを発する前に彼女は私の部屋に入り込んでいた。机の上に出しっぱなしにしていた救急箱を手に取り、はい、と私に差し出してくる。勘弁してくれ。
 ……結局、私は寝間着のまま彼女の傷口に消毒液を塗り、包帯を巻き直すことになった。
「ありがとう」
 どういたしまして。治療費を請求しても良いだろうか。
 彼女はきょろきょろと私の部屋の中を見回している。間取りは同じはずだし、そんなに珍しいものでもないだろうに。私の部屋は彼女の部屋に比べてずいぶん殺風景ではあるが。
「帰らないの?」
「あれ何?」
 あ、無視したな。
 彼女は部屋の隅に置いてある段ボール箱に近づいて、再び同じ問いを口にした。
「ねえねえ、これ何?」
「……トマト」
 昨日買ったトマトだ。今が旬だし安かったので箱買い。これもいつものことである。
「好きなの?」
「好きだよ」
 めんどくさくなったのでいい加減に答える。口寂しいので枕元に投げてあったタバコの箱を取って一本くわえる。
「あたしタバコ嫌い」
 このやろう、と思って一瞬手が止まりかけたが、しかし何を遠慮することがある。
「ここは私の部屋」
「……ちぇ」
 今度は折れた。ふんと鼻で笑って、タバコに火をつける。
「ねえ、トマト美味しい?」
 美味しいよ、と投げやりに返す。
「どうやって食べんの?」
 ああもううっとうしい。
「そのまま」
「そのまま?」
 彼女はきょとんとした声を出した。
「丸かじり」
「丸かじり? 嘘でしょ」
 嘘じゃないんですけど。だんだん苛立ってきたので、トマトをひとつ拾い上げてかじりついてやる。
 どうだ、というように視線を送り、彼女の目の前にトマトを突きつけてやる。
 次の瞬間。
「わっ」
 彼女は私が差し出したトマトにかぶりついてきた。まるで大きな獣に手から餌をやるように。
 薄い赤色をした液体が滴る。驚いた私はトマトを落としてしまった。べちゃ、という嫌な音がする。
「あーあ」
 何やってんの、と彼女が言う。それはこっちの台詞だ。
 やれやれ仕方ない、と私は台所に布巾を取りに行く。ついでにトマトの汁で汚れた手を洗う。
 まだフローリングの上で助かった、と思いながら後片づけを終えると、彼女がいなくなっていた。
 否。
 先ほどまで私が寝ていたベッドの上にいた。
「おいおい」
「んー」
 んーじゃないよ。
「だって好きだったんだもん」
「は?」
「みんなゼッタイ遊びだろって言ったけどあたしは好きだったんだもん、本気で。あいつのこと」
 それはシーツ越しにくぐもってはいたけれど熱っぽい言葉だった。百歩譲ってその気持ちは信じてもいいと思う。だが。
「私の部屋で愚痴言わなくてもいいと思うんだが」
「あんた以外聞いてくれる人いないんだから仕方ないじゃない!」
 逆ギレされた。ああ、いいよもう。
 抵抗するのがめんどくさくなったので私は適当に床に座って二本目のタバコに手を伸ばした。彼女は枕を抱きしめてベッドの上をごろごろしている。
「傷口が開くよ」
「開いたらやばいの?」
「今度は救急車」
 ふーん、と彼女は気のない言葉を返した。そして二言目から、彼女のオンステージが始まった。


「ありがとね、じゃあねー」
「はいはい」
 日が暮れるまで、二人のなれそめから昨日の喧嘩のいきさつまでを延々聞かされた私は正直げんなりしていたが、対照的に彼女はとてもすっきりした顔をして帰っていった。
 どんなボランティアだよ、と心中で毒つく。山になったタバコの吸い殻とコーヒーカップを片づけて、冷蔵庫の中からトマトをひとつ取り出した。
 仕方のないことであるが、冷蔵庫の中はトマトだらけである。台所でかぶりつく。冷たい汁が腕を伝ってゆく。
 明日も来るんじゃなかろうなあの女、と私は思った。


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