翌朝、なにやら表が騒がしいので目が覚めた。ざわめきが尋常でないので服を着替えて外に出てみる。
アパートの階段を下りていくと、いかにも噂好きそうな大家が私を見つけて近づいて来た。
「どうかしたんですか」
「それがねえ、自殺未遂みたいなのよ」
「はあ」
自殺未遂ですか?
「あなたのお隣の部屋のミヤギさんなんだけど、今朝どんどん床を叩く音がするっていう苦情が来て注意しに行ったら、手首から血を流して倒れてるんだもの。びっくりしたわあ」
はあ、そうですか。
「今救急車が来て病院に運ばれたところなんだけど……」
うわあ、大変ですねえ。
大家の長い話を聞き流しながら、そういえば私は彼女の名前すら知らなかったのだとぼんやり思った。
● ○ ●
彼女が病院に運ばれてから数週間が経ったが、彼女が帰ってくることはなかった。
数日前に彼女の身内らしい人々がやって来て、彼女の荷物を運び出して行った。隣室は今無人だ。鍵は閉まっていなかった。ドアは簡単に開いた。
室内からはベッドもテレビもカーペットも消え失せ、フローリングの床が広がっているだけだった。カーテンも取り外されたむき出しの窓からは一面に夕日が入ってくる。
私は自室から持ってきたビニール袋からトマトを取り出して一口かじった。冷蔵庫から出したばかりのトマトはまだひんやりとしている。
彼女は。
再び手首を切ったという彼女は、おそらく助けを求めて床や壁を叩いたのだと思う。
そのサインを、一番に受信すべきだったのは私だったはずだ。うぬぼれかもしれない。それでも、彼女には悪いことをしたと思う。
少し熟れすぎたトマトの果肉は潰れ、ぞくりとするような冷たさを伴って赤い液体が手首を流れ腕を伝い肘から滴り落ちる。
彼女が最初に自分を傷つけたカッターナイフは私が預かっていた。包丁を使った可能性もあるし、果物ナイフがあったのかもしれない。ハサミでやったのかもしれない。だからこれは私の勝手な想像である。
二口目をかじると無様に四方に液体が飛び散った。綺麗な食べ方じゃない、当然だが。赤い果肉が床に落ちる。一度通った筋をなぞって赤い液体がまた静かに流れてゆく。夕日を受けてオレンジめいた赤に光る。
包帯を外した彼女はむき出しの傷口に歯を立てる。ぎりぎりと。ぱっくりと赤い果肉が開く。赤い水滴が手首を伝う。
私は腕時計をはめた左手首に視線を落とす。太めの革ベルトで覆われたそこには、おそらく消えかけた細い傷跡がまだ存在しているはずだ。
彼女は私。幼い日の私。鏡に映った私だ。それが単純で安っぽいセンチメンタリズムだというのはわかってはいるけれど。
私はトマトを完食する。私の手や腕はトマトの汁で真っ赤だ。おまけにべたべたして気持ち悪い。かまわずに二つ目のトマトを手に取った。
真っ赤な実に歯を立てる。ただひたすら無心に。酸っぱい匂いが鼻をつく。皮ごと食いちぎり、咀嚼し、その度に熟れすぎた果肉は潰れ、断片は飛び散り、赤く光る冷たい液体が手のひらを汚し手首を伝う。
私は肘に溜まった雫をそっと舐め上げる。夕日の照らす部屋で。
End.
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サンタラ「太陽」より。
思いついちゃったものは仕方ない。
なかなか好評で嬉しかったです。
トマトの描写が難しかった。楽しかったけど。
裏バージョンは『太陽U』にて。
photo>> MIZUTAMA 様