太陽
唐突な話で恐縮だが、私はトマトを丸かじりするのが好きだ。
ぐずぐずに熟れすぎたものや、身がしまって固すぎるものはNG。皮はハリがあって固く、中身はほどよく熟れてやわらかいのが良い。色は少し朱色がかった赤が好きだ。よく冷やしたものに少しだけ塩をふりかけてかぶりつくのが一番美味い。太陽の光をたくさん浴びて育ったトマトは酸味の中にもほどよい甘みが感じられる。
そういう行儀の悪い食べ方をするとたいていトマトの汁が垂れてきて手が汚れるので、台所の流し台の前に突っ立って食べるのがいつものことである。そのとき例によって私は台所でトマトを味わっていた。今年の初物である。美味い。
それは良いのだが、実に興ざめなBGMが薄い壁の向こうから聞こえてくる。男女が口論する声である。
隣のカップルがまた喧嘩してるんだろうなあと思いながら私は冷蔵庫から取り出した二つ目のトマトに手を伸ばす。これで何回目の別れ話だろうか。どうせしばらくすれば収まるだろうと思っていたら、今回は様子が違った。
ヒイッ、という男の悲鳴らしき声が聞こえ、がたがたと何かが倒れるような派手な音がしたかと思ったら隣室のドアが開く音がして、誰かの足音が遠ざかっていった。
なんだどうしたという野次馬根性が働いて、私は食べかけのトマトを手に持ったまま部屋から出て行った。ちなみに私が住んでいるのは六畳一間のアパートの二階である。
ひょいと隣室の方を見てみると、そこには髪の長い女が立っていた。隣人である。傾いた太陽で陰ったアパートの通路の真ん中に立ちつくしている。
真っ赤なワンピースを着て黒髪を振り乱し、ぜいぜいと息を荒げている彼女は確かに人をぎょっとさせるものがあった。
おまけに。彼女の右手には細身のカッターナイフが握られており、彼女の左手首からは赤い液体がぽたぽたと流れていた。
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というか、治療の当てがないんなら怪我をしないでほしいものである。私は救急箱を持って彼女の部屋に上がり込み、応急処置をする羽目に陥った。
パステルカラーで統一されたカーテンにカーペット、可愛らしいデザインのベッドやデスクが置かれた女の子らしい部屋だ。傷口はそこまで深くもないが浅くもない。応急処置として止血をして消毒液を塗り、包帯を巻いておく。
「早めに病院に行った方が良いと思うよ」
「えー、めんどくさいなあ」
彼女は長い黒髪を払いながら顔をしかめて言う。私と同い年か少し若いくらいだ。一歩間違えたら死んでいたかもしれないということを自覚してほしいものである。なぜそんなことをしたのか、と尋ねると、
「あの男が別れるって言うから。別れるくらいなら死んでやるって言って切ってやった」
そしたらあの男びびって逃げてったの! なんて言って彼女はけたけたと笑う。このテンションにはついていけそうにないので私は早々と退散することにした。
「もう帰るの?」
「帰ります。月曜になったら病院に行って。明日は消毒し直して包帯取り替えて」
「はぁーい」
絶対にわかってない返事が返ってきた。まあ彼女の傷口が化膿して破傷風になって死のうとも私の知ったことではないから別に良いのだが。意外にも彼女は玄関まで私を見送りに立ち、
「これ、ありがとうね」
と言った。迷惑はかけられたが、まあ良しとしよう。
「どういたしまして」
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