「保いるかー?」
3時間目の休憩時間、空腹に耐えかねて早弁でもしようかと思っていたら類がやってきた。ちなみに類は隣のクラスだ。
「おお、珍しいじゃん。教科書でも忘れた?」
「いや。遅くなったけど三曲目のアレンジできたから、楽譜持ってきた」
「おおさんきゅー。でも何で……」
今なのか、と聞き終わる前に類は目の前からいなくなっていた。廊下を走り去っていく後ろ姿を目で追う。荷物を肩から下げているので、どうやら早退するらしい。理由は何となくわかったが、ちょうど古典教師にして類のクラスの担任が歩いてくるのが見えたので聞いてみることにする。そういえば次の授業は古典だったな。
「センセー、類、何かあったんですか?」
「おう、内藤か。長谷川は、ちょっと家庭の事情でな」
「梢ちゃん……妹のことですか」
「あー、おまえら仲良いんだったな。最近体調が良くないらしくてなあ」
「……そうですか」
教師としては授業に出てぼしいんだけどなあ、とぼやいているのを曖昧に聞き流しながら、おれは廊下の窓から校庭を見下ろした。教室に戻ろうとする生徒の流れに逆らって、一目散に校門に走っていく類の後ろ姿が見えたからだ。
ちょっとは何か言ってくれてもいいのに。
類が書いてくれた楽譜をコンクリートの上に広げて、風で飛ばないようにギターケースで押さえて。足を組み、兄貴のお下がりでもらったココア色のギターを抱え込んで。弦を押さえて、一音一音をゆっくりと拾っていく。ことばを音に乗せていく。けっこう地味で果てがない作業だ。
放課後は人気のない理科棟の、螺旋階段の下がおれのいつもの練習場所だった。
文化祭まであと二週間。類とは一度打ち合わせをしたきりで、まだ一度も音を合わせていない。最近は早退することも多く、どうやら本当に梢ちゃんの具合がよくないらしかった。
集中力が切れてきたので紙コップのココアを飲みながら休憩していると、軽音同好会のブチョーがやってきた。よう、と片手を上げて互いに挨拶する。
「ちょっといい?」
「どぞどぞ」
ブチョーはおれの隣に座って、ひょいと楽譜をのぞき込む。
「おー、長谷川の楽譜?相変わらずマメだな」
「相変わらずいい仕事してるでしょ」
「うん、確かに。なあ保」
楽譜の一枚を手にとって見ていたブチョーが顔を上げて言った。
「長谷川、大丈夫なの?」
ええと。
おれが返事に困っていると、ブチョーは真顔でもう一回聞き直してくれた。
「お前らちゃんとステージ立てるの?」
「や、おれもちゃんと練習してるし!類もその点は心配ないと思うし!あとは本番前に練習するチャンスがあれば大丈夫!」
やっと合点が行ったおれが本気で慌てて言葉を重ねると、ブチョーはまあまあ落ち着けというジェスチャーをしながら続けた。
「お前らを降板しようってわけじゃないから安心しろよ。あのさ……」
言いかけてブチョーは口ごもった。この男が躊躇うなんてめずらしいなあと思いながら、おれは次の言葉を待つ。
「なんならさ、オレらといっしょにやる?」
おれは一瞬フリーズしてしまった。きょとん、とした顔をしていたと思う。
「お前もせっかく最後のステージなのに、演奏できなかったら嫌じゃない?」
「うーん……」
おれはあからさまに困った顔をしていたのだろう。ブチョーは慌てた顔になって言った。
「ああ、無理にとは言わないし!万が一のときのことを考えただけだから!」
「あーうん、わかってる。ブチョーの気持ちは嬉しいよ、マジで。ありがとな」
おれはブチョーににかっと笑ってみせる。これが答えだ。そしてブチョーは頭のいいヤツなので、きちんとおれの答えを読みとってくれた。
「いえいえ、どういたしまして」
ブチョーは苦笑いしてそう言った。
絶え間ない靴音と話し声。早朝だというのに校内はざわめいている。
校門は賑やかに飾り付けられ、たいして広くない校庭にはこの日限りのステージが建ち、テントの群れが並ぶ。
おれは足元にギターケースを置いて、廊下からぼんやりそれらを見下ろしていた。朝の風は少し冷たい。おれは祈るくらいの強さで願っていた。思わず呟いていた。
信じてないわけじゃないけど。頼む。
「来いよー、類……っ」
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