はーいという返事の後に、ぱたぱたという足音が続き、ドアを開いて現れたのは黒いエプロンを身につけた類だった。

「よっ」

 おれは片手を上げて挨拶する。

「母ちゃんがおかず作りすぎちゃったからどうぞって。あとうちで漬けた梅干し」
「おお。いつもありがとうございます、って伝えて」

 おれが風呂敷に包まれたタッパーを差し出すと、類はぺこりと頭を下げてそれを受け取った。

「時間あるなら、上がってくか?」
「ある!お邪魔しまーす」
「はいな」

 類はくるりと背を向けて先に廊下を歩いていく。おれは靴を脱いで類の後に続く。類の家は木造の平屋で、古いけれどいい家だ。もとはお祖父さんの持ち家らしい。
 廊下の突き当たりには4人がけのダイニングテーブルが置かれたキッチンがあり、おれはこの家に来るときの定位置になっている端のイスに座った。類が熱い緑茶を入れた湯飲みを差し出してくれながら言う。

「飯作っちゃうから、ちょっと待っててな」
「さんきゅー。お構いなく」

 長谷川家の夕飯はチャーハンらしい。お母さんの姿が見えないということは、今日は仕事で遅くなるのだろう。のんびりお茶を飲みながら、手際よく料理を作っていく類を眺めていた。どこからかテレビの音が聞こえてくる。隣の家からだろうか。台所はオレンジの西日が差していてほんのりと明るい。類の手元を照らす蛍光灯の白い光が、たくさん遊んだ夕方の帰り道に見る電灯みたいに見えた。

「なごむなあー、ここ」
「またジジィみたいなことを」
「む。失礼な」

 そんな軽口を叩いているうちに、類の夕飯の支度も終わりそうな気配だ。おれは食器棚の中から湯飲みをひとつ取り出し、類のお茶を煎れた。

「ん」
「おう、さんきゅ」

 しばらく無言でお茶をすする。沈黙を破ったのはおれだった。

「なあ類」
「うん?」

 ひとつ息を吸って、話題を切り出す。

「進路どうするか決めた?」

 おれたちは高校3年生。季節は秋。そろそろ将来の進路を決めなきゃならない時期だ。

「俺は就職するよ」

 類はあっさりとそう言った。手に持った湯飲みに視線を落とし、穏やかな表情を浮かべている。

「梢の治療費のこともあるし」

 そうか、とおれはどこかで納得していた。それらしいことは何度か聞いたことはあったが、はっきりと類の口から聞くのはこれが初めてだった。それはそうだろう。それでいいのだ。でも。

「……音楽はどうすんの」

 類は二秒ほどぴたりと動きを止め、それを誤魔化すように頭をかく動作をして、明後日の方を見ながら言葉を続けた。

「有り難いことにテレビ局からお誘いが来てるんだけど、あの仕事は勤務時間とか休みが不定期だからちょっとなあ。梢の見舞いに行けないのは困るし」
「……そっかあ」
「お前はどうすんの。進学?」

 類が俺に視線を戻し、やわらかく聞いてくる。

「うん、たぶん進学するけど。どこに行こうとか、そういう問題」

 そうかと類はひとつ頷いて、そこではたと何かに気づいておれを見て言った。

「お前、ちゃんと勉強しろよ?」
「……なんでまたおれの母親と同じことを言うの類ちゃん」

 おれが脱力してテーブルの上にばたんと倒れると、類はそれを見て声をあげて笑った。



 類とおれが初めて出会ったのは、高校の軽音同好会の部室だった。

 新入部員の自己紹介が終わって、室内はざわめいていた。バンドを組むメンバーを探す同級生たち。将来有望そうな新入生に声をかける先輩たち。その中でおれは完全に浮いていた。

 「ギターがかっこよく弾けるようになりたくて入部しました!」っていうのはまずかったかやっぱり。

 高校にもなれば、周りは経験者だらけ。初心者はおれひとりしかいなかった。
 にぎやかな室内で壁とお友達になっているのはおれだけ――かと思ったら違った。
 数メートル離れたところで、壁に背中をくっつけて、ぼんやりしている男がひとり。たしか先ほどの自己紹介で、

「楽器はキーボードです」

 と言っていた男だ。
 今の流行りはギター・ベース・ドラムが必須のロックバンドか、アコースティックギターをかき鳴らすフォークデュオ。時代のニーズからはすっかりしっかり外れている。
 おれがじーっと男を見つめていると、視線を感じたのか彼はこっちを見た。彼は驚いたような顔をして、それからちょっと笑った。おれも嬉しくなって笑い返した。
 その瞬間に、こいつとは仲良くなれそう、と思ったのだ。

 そうして類とおれは互いに名前を名乗り合い、友だちになった。



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