Sing, A Simple Song



 見上げた空は雲に覆われて妙に白っぽくて、頭上にある貯水タンクが空の色と流れる雲を反射して鈍く光っていた。雨が降る前の、湿り気を含んだ強い風が吹いている。

「……ごめん」

 よく知った声が短く謝罪の言葉を告げるのを聞いて、おれはあーやっぱりそうだよなーと思った。
 ぼそぼそと話し声が続いて、一方が高く軽い靴音を立ててその場を去っていく。もう一方はその場に取り残された。
 緊迫した空気から解放されて、おれは思わずため息をついた。

「よっ」

 物陰から顔を出して、取り残された男に声をかける。

「モテる男はつらいねえ〜」
「……いたのか」

 不愉快そうに眉をひそめて答えたのは、おれの友人の長谷川類。

「盗み聞きは悪趣味だろ」
「んー、悪いとは思ったんだけど」

 類が屋上へ行ったと聞いてやって来たら本人の姿はなく、後から女の子に連れられて類がやってきたので慌てて隠れたというわけだ。
 目の前でどきどきの告白タイムを開始されては聞かないわけにはいくまい。
 そう説明すると、類はため息をついた。

「一生の不覚」
「へへへ。でももったいないなあ。けっこうかわいい子だったのに」

 実はこいつ、けっこう女の子受けはいい。「硬派」な雰囲気がいいのだとか。こいつあんまりしゃべらないだけで、口を開けば毒舌だしエロい話とかも普通にするぞ。騙されてるぞ。とおれは思うのだが。

「そういう余裕はありません。で?」
「へ?」
「お前は俺に用事があったんじゃないのか」
「おっそうそう。ブチョーが文化祭でやる曲目決めろってさ。相談しようと思って」

 類と俺は軽音同好会に所属している。二ヶ月後の文化祭のステージは、軽音唯一の晴れ舞台なのだ。まあ類と俺のユニットはそんなに目立つわけではないのだけれど。

「ああそうか……悪いけど、これから病院寄ってバイトなんだよ」

 類が困ったなという顔になって言った。でもこの展開は実は予測済みだ。

「あ、じゃあいっしょに病院行っていい?久しぶりに梢ちゃんに会いたいし。帰りながら相談しようぜ〜」
「いいよ。お前が来ると梢も喜ぶ」
「おおっ。おれ、モテモテ?」
「じゃあ荷物取ってくるから」
「ちょっとつっこんでよ類ちゃん」
「はいはい」



「梢ちゃん久しぶりー!保おにーちゃんですよー!」

「バカかお前は」

 おれの元気な挨拶に横から類が冷たいツッコミを入れ、

「わあ内藤さんだ!おひさしぶりです」

 ベッドの上から類の妹、梢ちゃんが可愛らしい挨拶を返してくれた。

「せっかくうたのおにいさん風にキメてみたのに」
「キメんでいい」

 類とおれの会話を聞いて、梢ちゃんは楽しそうに笑っている。
 おれはベッドの横のパイプ椅子を広げて座り、カバンの中から小さなケースを取り出した。

「はい、梢ちゃん。例のブツ」

 と言ってもヤバイものではなく、流行りの歌をダビングしたカセットテープだが。

「わあ!ありがとうございます」
「あ。またお前は保に手間かけさせて……」
「だってお兄ちゃん、クラシックか英語の歌しか聞かないんだもん。つまんない」

 雑用をしていた類が手を止めて口を挟もうとしたが、梢ちゃんにばっさり切り捨てられて言葉につまる。
 いつもはポーカーフェイスの類が梢ちゃんに言い負かされている姿はけっこう面白いので、おれはこの兄弟を見ているのが好きなのだ。

「まあまあいいじゃん。おれは梢ちゃんが喜んでくれると嬉しいしー。梢ちゃんだって流行りの歌聞きたいもんな?」
「はい!」

 というよい子のお返事。かわいいなあ。
 梢ちゃんは14歳。本来なら中学校に通っている年齢だが、体が弱くてずっと入院している。類とお母さんが彼女の世話をしている。長谷川家に父親はいない。梢ちゃんが健康になるためには手術をしないといけなくて、それにはずいぶんとたくさんのお金がかかる、らしい。
 でも変に深刻ぶらない長谷川家の人たちが、おれは好きだ。

 類はあきらめたようにため息をついた。梢ちゃんとおれは顔を見合わせてにこーっと笑い、最近のヒットチャートやら新しいゲームやらの、たわいもない話を始めたのだった。



「あ。降ってきた」

 仕事帰りにやってきた長谷川家のお母さんと入れ違いに病院を出たところで、ちょうど雨が降り始めた。広げた手のひらに雫が当たる。

「お前、傘は?」
「持ってない。てかなんで持ってんの?」

 おれはカバンの中から当然のように傘を取り出した類を見て言った。

「折りたたみ傘くらい常備しとけよ」
「よく言われる。お前に」

 でも折りたたみ傘を常備する高校生男子というのも、けっこう貴重だと思うぞ。
 というツッコミを言葉にすると、傘に入れてもらえなくなるので言わないが。

「バイト先まで入れてってー」
「はいはい」
 
 類は完全にあきらめた口調で言って、傘を半分差し出してくれた。
 
 類のバイトというのは、テレビ局の音響スタッフである。
 なんでも中学生の時、放送コンクールに提出したラジオ作品がきっかけで声をかけられたらしい。その作品のBGMを作ったのが類だったのだ。
 類には才能があると思う。音楽で生きていけると思う。高校の軽音同好会にいる、どんなやつよりもすごいと思う。目立たないけど。
 じゃあそいつと軽音でバンド組んでるおれは何だ。

 俺はふかぶかとため息をついた。

「落ち込むわあ……」
「なにが」
「いやひとりごと」
「変な奴」
「そりゃお互いさまでしょ」

 そう言い返すと類は愉快そうに笑った。
 結局おれは類の折りたたみ傘を借りて家に帰った。
 テレビ曲のキラキラしたロビーに消えてゆく類の後ろ姿は、おれと同じ制服の紺色のブレザーを着てるのに、なんだか大人の背中のように見えた。



 
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