無限図書館U<完全版>



あの夜以来、僕と兄の間には奇妙な緊張感が漂っている。兄が僕を警戒しているようでもある。
ふと視線に気づいて顔を上げると、兄が物言いたげな顔をして僕を見ていることがしばしばあった。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
僕が尋ねると、兄はいつも言葉を濁した。
母には「あら、あなたたち喧嘩したの? 珍しいわね」と言われ、級友の河野には「元気ないな、昴」と言われる始末。
僕は蔵を横目に睨みながら、そこを訪れることなく数日を過ごした。
興味はある。が、少し怖い。そして憎らしい。
あの美しい少女が兄の心を奪ったのなら。
学校から帰ると兄の部屋に寄る。ここ数日は少し足が重い。
ただいま、と言いながら襖を開くと兄はいなかった。家の中を走り回って探したが、どこにもいない。
それなら、兄がいるのはあそこだけだ。

「図書室」、もとい図書館。彼女のいるところ。

蔵の扉を開けると、深緑の絨毯と本棚が見えた。奥から兄と少女の笑い声が聞こえる。
僕は扉の隙間からそっと中に入り込み、声の聞こえてくる方に近づいて行った。
奥に進んで行くと、兄と彼女がテーブルを挟んで座り、談笑しているのが見えた。
僕は本棚の陰に隠れてそれを眺める。
兄の顔はうっすらと紅潮して輝き、生き生きと楽しそうだ。少女が何か言うたびに目を細めて微笑む。
本の話をしているのだろう。僕の知っている本のタイトルや作者がちらほらと聞き取れた。
身じろぎもせずその光景を眺めていると、少女が僕に気づいた。そして口元に薄く笑みを浮かべた。
嘲るように。勝ち誇ったように。
それを見た瞬間、かあっと頭に血が上り、僕は背を向けて扉に向かって走り出した。
「どうかした?」
「なんでもないわ」
やわらかい絨毯が足音を消してくれる。それがひどく有り難かった。



夕飯時に顔を合わせた兄と僕の間には、相変わらず微妙な雰囲気が漂っていた。
あんな光景を見てしまったせいでさらに顔を合わせづらい。偶然目が合うと、互いにぱっと目を反らしてしまう。
楽しそうに本の話をする兄と少女を思い出して、気分が落ち込んでいくのを自覚した。
昔からあれは僕の役目だったのに。
本に関しては、僕の一番の話し相手は兄で、兄の一番の話し相手は僕のはずだったのに。
ぼんやりと長椅子に沈み込んでいる僕の傍らに母がやって来て尋ねた。
「大丈夫? あなたたち、まだ仲直りしてないのね」
「……そんなんじゃないよ」
僕は力無く言った。そんなのじゃない。
深夜、家の中が寝静まったのを見計らって僕は庭に下り、蔵の扉を開いた。
案の定、そこには華やかな図書館が広がっていた。そして美しい少女がひとり。
「ずいぶんな時間ね」
 彼女は薄く微笑を浮かべて言った。僕は無言で彼女を睨む。
「怖い顔」
 くすくすと笑う。まるで相手にされていない。むっとした僕は、
「あんたなあ……!」
 と声を荒げながら彼女に詰め寄ろうとしたが、それより早く彼女が僕との距離を詰めた。
気づいたら彼女の顔が目の前にあった。
「妬いてるの?」
「なっ……」
 目を白黒させている僕を見て彼女が楽しそうに声をあげて笑う。
「ねえ、いいものを見せてあげる。ちょっと隠れていて」
 本棚の陰を指して言う。渋々それに従うと、それを待っていたかのように図書館の扉が開いた。
 兄かと思って一瞬身構えたが、入って来たのは中年の男である。
男はふらふらと彼女に近寄り、なにやら言葉を交わした後、彼女がどこからともなく取り出した羊皮紙に署名をした。
 男が羊皮紙を彼女に返す。彼女がそれを受け取る。次の瞬間。
 館内が一瞬にして黄金色の光に包まれ、僕はあまりの眩しさに思わず目を閉じた。
何かが爆発したような、凶暴な光。
それでいてやわらかい不思議な光。
 瞼の裏に焼き付いた光が治まるのを待ち、彼女は大丈夫だろうかと思いながら目を開ける。
「いつまで目を閉じてるのよ」
 彼女の笑うような声が響いた。
「……うるさいな」
 こちらにいらっしゃい、と彼女が呼ぶ。僕は本棚の陰から出て彼女に近づく。
 男の姿はどこにもなかった。
「あの男の人は?」
「あなたの足元」
「は?」
 思わず下を見ると、そこには。
 赤茶色の装丁をまとった一冊の本が落ちていた。
「何だ?」
 無造作に本が床に落ちているのが許せない、という性分で思わず拾い上げてしまう。わりと厚い本だ。細かい字が二段組みでびっしりと印刷されている。
「あの男の人よ」
「は?」
僕は再び間抜けな声をあげてしまう。確かにこの位置は先ほど男が立っていたところだが。
「本になったの。あの人がそう望んだから。その表紙もその文字もその物語もあの人そのものよ」
「馬鹿言うな」
「あら。信じてないのね」
「誰が信じるか」
 だいたいあんたの存在そのものが胡散臭すぎるというのに。
「本当よ。肉体を本に、魂を物語に。分解して再構成するの。一冊の本として生まれ変わるのよ。ここではそれができる」
「嘘つけ」
「なら、さっきまでここにいた男の人がいなくなったのはどう説明するの?」
「どうせあんたが何かしたんだろ」
「だから、本になったのよ」
 どうせからかわれているのだろうと思ったが、彼女は真面目な顔をしている。僕はひとつため息をついた。
「……なぜ? どうして本になんかなりたがる?」
「永遠に生きるために」
 笑い飛ばそうと思ったができなかった。彼女の瞳があまりに真剣だったからだ。
「本としてこの図書館に収まっている限り、損なわれることも消えることもないわ。死ぬこともないの。本になるのだから。
永遠に本として存在し続けることができる」
 彼女は歌うように、諭すように、誘惑するようにそう告げた。
「あなたは本になりたくはない?」
 彼女が綺麗に笑う。僕は手元の本に視線を落とした。僕は困惑していたが、しばらくの後、正直に思うところを告げた。
「あんまり」
「どうして?」
「……本になったら、本が読めない」
 永遠だの何だの、すごそうだなあとは思うが僕にはよくわからないのだ。
どちらかと言えば、その手のものを好むのは兄の方である。
……などと考えていると、僕の目の前で彼女が大爆笑していた。
「おい、いい加減にしないと怒るぞ!」
「ああ、ごめんなさい……お利口な答えね」
 彼女がにこりと笑う。馬鹿にされているのだろうか。
「でも、あなたのお兄さんは本になりたいって言ったわよ」




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