無限図書館U<完全版>




「図書室」の中に消えた兄は夢だったのか、幻だったのか。兄は何事もなかったかのように平然と夕食の席に現れた。
心なしかいつもの憂い顔は消え、表情が華やいでいるようにも見える。
僕がまじまじと眺めていたせいか、
「どうした、昴?」
と兄が不思議そうな顔をして尋ねてきた。
「なんでもないよ」
今までどこにいたの、という問いかけを僕は夕食と一緒に喉の奥に押し込んだ。
夕食後、僕はふらりと庭に出て蔵の前に立った。月の明るい晩だった。これなら蔵の中も少しは明るいだろう。
やはりどうしても腑に落ちないので、もう一度蔵の中を調べてみることにしたのだ。
ひょっとしたら秘密の抜け道なんてものがあるのかもしれないし。
蔵の扉に手をかけて開ける。不思議な眩しさを感じて僕は思わず目を閉じた。
すぐに目を開けると、足下に深緑色の絨毯があった。
「は?」
驚いて顔を上げる。そこにあるのは見慣れた薄暗い蔵の光景……ではなかった。
目の前に広がるのは深緑の絨毯が敷かれた広大な空間だった。
吹き抜けの高い天井からシャンデリアがぶら下がり、柔らかな照明を落としている。
そしてなにより、その空間は艶やかな飴色をした本棚に囲まれていた。
その数が半端ではない。百か二百か、いやもっと大量の本棚がずらりと並び、螺旋階段に沿って視線を上に向けるとそこにも本棚が並んでいた。
そこに収められている本は何冊になるだろう。何千か、いや何万か。
僕は驚きも忘れ、思わずため息をついた。
そこへ、くすくすという笑い声が響いた。静まりかえった空間によく響く高い声。
「だ、誰だ!」
僕は大声をあげる。一歩退いた拍子に背中が何かに当たり、思わず後ろを振り返る。
そこにあったのは古い木製の扉ではなく、飴色に光る両開きの大扉だった。
何だ、ここは。
「兄弟で同じ反応をするんだもの。面白いわ」
涼やかな声がして、本棚の間からひょいと人影が現れた。
黒髪を長く伸ばし、白いブラウスに紺色のスカートを身につけた少女である。
歳は僕と同じくらい。十五・六歳だろうか。
ぽかんとしている僕を尻目に、彼女はスカートの端をつまみ上げて淑やかに一礼した。
「ようこそ、私の図書館へ。佐倉昴さん」



蔵の扉を開けたら中はなぜか本棚がずらりと立ち並ぶ西洋風の大広間だった。
それだけでも混乱しているというのに、どこからか得体の知れない少女が僕の目の前に現れてにっこりと微笑んでいる。
何なんだこの状況は。
「……図書館? 君の?」
「そう、図書館。私の」
彼女は笑う。利発そうな顔立ちに艶やかな黒髪、赤い唇。絵に描いたような美しい少女だった。
混乱したまま、僕は尋ねた。
「ここはどこだ?」
「だから図書館よ。この図書館は本のあるところならどこでも入り口をつなげるの。蔵の入り口を図書館の扉とつなげて、あなたをご招待したってわけ」
言い終えた彼女は踊るようにその場でくるりと半回転した。ふわりと紺色のスカートが揺れる。
「ここにはありとあらゆる本があるのよ。かつて書かれた本もこれから書かれる本も全てがここに存在するの。どう? あなたたちみたいな本好きにとっては魅力的でしょう?」
飴色の大量の本棚を背景にして、両手を広げた彼女が僕を見て艶やかに微笑む。僕は眩暈を覚えた。待て、待てよ。
「あなたたち、って何だ? それにさっき兄弟って言ったよな?」
「そうよ。曜一郎さんとあなたのこと。本を愛する人にしかここへの入館資格はないの」
「兄さんがここに来てるのか?」
「ご招待したもの」
常連さんよ、と彼女が歌うように告げる。美しい少女と憂い顔の兄がつながり、僕は納得した。
「あんたが兄さんの想い人か!」
「何よ、あんたとは失礼じゃない? あ、待って。曜一郎さんが来るわ」
「は?」
「まだ話したいことがあったのに……まあいいわ。そのうちまた会いましょう」
「え、おい……」
僕が言い終える前に、じゃあねと彼女が言って景色が暗転した。
気づいたら僕は薄暗い蔵の中にいた。冷たい床の上に座り込んでいた。
深緑のやわらかい絨毯もシャンデリアも消え失せ、明かり取りの窓から月光が差し込んでいる。
後ろでぎいぎいと扉が軋む音がして、振り返ると兄が立っていた。
「昴?何してるんだ?」
月の光に照らされた兄の顔は強張り、心なしか青ざめているように見える。気のせいだろうか。
「……兄さん、上の方の本取ろうとしたら落ちちゃってさ。手、貸してくれない?」
僕は作り笑いを浮かべて言った。



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