無限図書館U<完全版>



放課後、僕は急ぎ足で家に帰った。
僕の家は俗に言う成金で、父は紡績会社を経営して財を築いた。
おかげで兄と僕は立派な家に住み、何不自由なく暮らし、高等教育を受けられるというわけだ。
金持ちの家は洋風の屋敷が多い中、僕の家は珍しく純和風の造りである。
玄関で靴を脱ぎ、まっすぐに兄の部屋に向かう。
兄は文机の前に座り、本を読んでいる……と思ったが、違った。
本を開いてはいるが目は文字を追っていないし、頁はめくられている様子もない。
時々思い出したようにため息をついている。
ぼうっとしている様子だ。兄らしくない。僕が襖を開けた時点で気づかないのがまずおかしい。
兄ならば、すぐに僕に気づいて何かしら優しい言葉をかけてくれるはずなのに。
「兄さん?」
声をかけてみると、わあッと大声をあげて驚かれた。こっちがびっくりする。
「ああ、昴か。おかえり」
「ただいま。何か考え事?」
「いや……そういえば、もう学校には慣れた?」
「楽しいよ。でも出来の悪い弟は優秀な兄を持って苦労してる」
おちゃらけて言うと兄が声をあげて笑った。
僕も笑いながら、さりげなく兄の顔色をうかがった。

しばらく様子を見ていたのだが、兄の奇行は日に日に悪化していった。
部屋でぼうっとしているだけならまだ良いが、食事中も上の空、道を歩けば物にぶつかるとなってはいくらなんでも程度が過ぎる。
「もともと曜一郎さんは、物事に熱中すると周りが見えなくなる人だったものねえ」
母が食後のお茶を飲みながらのんびりと言った。僕と兄もそれに付き合わされている。
「やっと春が来たのかしらね?」
母がにこにこ笑いながら言うと、兄が紅茶を吹き出した。
「な、何を言うんですか!」
「あら、私何か言ったかしら昴さん」
「いえ、何もおっしゃってないと思いますよ」
ねえ、と母と僕は顔を見合わせてにっこりと笑う。それで分からないほど僕も馬鹿ではない。
兄がとても不安そうな顔をして僕たちを見ていた。



母のお墨付きが得られれば話は早い。好奇心の赴くままに、兄の想い人を突き止めるのみである。
数日の間、僕は兄の周囲に張り込んだが、なかなか尻尾がつかめない。
兄は近所を散歩する以外は外に出歩かない。
もっぱら自室にこもって読書にいそしんだり母や僕とおしゃべりをしたり、「図書室」で本を漁ったりするのみである。
誰かと会っている素振りはないが、兄の様子は明らかに不自然である。
目の前の柱にぶつかってみたり、何もないところで転んでみたり、仕舞いには会話が成立しなくなった。
「兄さん、ゲーテ読んだよ」
「うん」
「これなんだけど兄さんはどう解釈した?」
「うん」
「……こっちは?」
「うん」
「兄さん、本燃やすよ」
「うん……ええ?」
この調子である。これでは本の話もできない。僕の一番の楽しみだというのに。
さすがに腹が立ってきたので、僕は友達と遊びに行くと嘘をつき、兄さんに一日べったり張り付くことにした。
朝方から身を隠して兄の様子をうかがうが、やはり誰かと会ったりする様子はない。
散歩に行き、本を読み、雑談をし、「図書室」に向かい……。

「図書室?」

僕ははたと思い当たった。どうして気づかなかったのか。
人気のない古い蔵に寄りつくのは僕と兄くらいのものである。
密会には最適ではないか。
そうと分かれば、と僕は庭を横切って行く兄の背をこっそりと追いかけた。
兄はぎいと鳴る古い扉を開けて蔵の中に入って行く。
僕はこっそりと扉に近づき、どきどきしながら隙間から中の様子をうかがった。
中は暗く、何も見えない。隙間から冷気が流れ出てくる。
話し声が聞こえるのではないかと耳をすませるが何の音も聞こえない。
蔵の中はしいんと静まりかえっている。せめて、兄の足音くらいしても良さそうなものだが。
僕は扉から身を離し、数秒考えたが、やがてできるだけさりげなく扉を開けた。
心臓をどきどきさせながら、兄がいるなんて気づかなかった、という顔をする自分を想像する。
あれ、兄さんそちらの女性は誰ですか――。
蔵の中はやはり静かだった。音もしない。人の気配もない。
本棚の間を一通り歩いて見たがやはり誰もいない。
明かり取りの窓はあるが、さすがにあそこから抜けるのは無理だ。
「兄さん?」
小さく呼びかけた声は虚しく蔵の中に響くのみ。兄の姿はどこにもなかった。



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