無限図書館U<完全版>
僕には気が遠くなるほどの空白の時間がある。
何もすることがないので、昔のことをしばしば思い出す。脳裏に焼き付けられた映像を再生するように、繰り返し繰り返し思い出す。
覚えている限り一番古い記憶は、僕と兄が「図書室」と呼んでいた古い蔵の光景である。
入り口から中をのぞき込むと、明かりのない蔵は薄暗く、ひんやりしていた。
奥の方から、古い本の埃っぽいような、甘いような匂いが漂ってくる。
それに引き寄せられるように僕は一歩を踏み出した。足の裏がひやりと冷たい。
整然と並べられた本棚の間を抜けると、奥には明かり取りの窓があった。
高い位置にある小窓から、夕方の陽光がまっすぐに差し込んでいる。
そこに兄がいた。
兄は大きな本を持っていた。日の光が彼の髪を透かし、金茶色に輝かせていた。
「兄さん」
と僕が呼ぶと、兄は顔を上げて僕に気づき、微笑んだ。
* * *
そして今、僕の前には兄が立っている。
蔵の中の本棚の前で。夕日に髪を透かして。昔と同じように。
しかし兄の背はずいぶんと高くなり、がっしりとした体の線を備えている。
片手で分厚い本を支え、もう片方の手で頁をめくる。
おまけに彼は、帝国陸軍の軍服を身につけていた。
兄がふと僕に気づいて顔をあげた。
「昴」
兄が目を細めて微笑み、僕の名を呼ぶ。
「昔とおんなじことしてるなあ」
「……おかえり、兄さん」
嬉しくなって僕も微笑んだ。
時は昭和の初め、まだ戦前のことである。季節は初夏。僕は高等学校の一年生だった。
始業前、勝手に僕の前の席に座り、話しかけてくる男がひとりいた。
「機嫌がいいな、昴」
河野である。級友の中ではわりと仲が良い。
「まあね」
「まあねって何だよ。今日は何を読んでるんだ?」
「ゲーテ」
僕はそう言って本の表紙を見せる。こんなやりとりはそう珍しくない。僕も河野も無類の本好きのため、話が合うのである。
もっとも僕の本好きは兄の影響で、兄は帰宅するなり服も着替えず「図書室」に赴くような本の虫なのだが。
「詩集か。そういうの嫌いじゃなかったっけ?」
「嫌いだよ。でもこれは兄さんのお薦めだから読む」
「ああ」
河野は納得した顔をした。
「お兄さんか。この前もずいぶん分厚い手紙書いてたよな。女子供じゃあるまいし」
「うるさいな。今、兄さんが家に帰ってきてるんだよ」
ああそれで。と河野はさらに納得したように頷いた。
「でも何でこんな時期に?」
「さあ」
盆にはまだ一月以上ある。確かに妙な時期ではあるが、陸軍の事情を僕が知るわけもなし。
「何か不手際でもやって暇を出されたんじゃねえの?」
河野がにやりと笑って言う。
「まさか。兄さんに限ってそんなことあるわけないだろう」
品行方正にして清廉潔白、おまけに文武両道。兄は僕が世界で一番尊敬する人物なのである。と力説すると河野は、
「あーはいはいはいはい」
もういいよと言わんばかりに呆れ顔でぱたぱたと手を振った。
「ちなみに放課後遊びに行こうって話なんだが、どうする?」
「兄さんがいるから、帰る」
「言うと思った」
河野は呆れたように嘆息した。
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