本番まで残り2週間を切ったころ。練習の合間の休憩時間のことだった。
 お手洗いからスタジオに戻ろうとしていた文也は、廊下の端に遙の姿を発見した。何してるんだろう、という好奇心に駆られて近づいてみる。
 なぜなら遙は非常階段のドアを開け放して床に座り、足は外に投げ出して、だが上半身は室内に入ったまま、煙草の煙を外に吐き出していたからだ。
 かなり不自然な光景である。

「なにしてんの?」
「おう、ぼーず。煙草吸ってる」
「それは見ればわかるよ」

 聞きたいのは、なぜそんな変な格好をして煙草を吸っているのかということである。
 文也の視線に気づいた遙は、ああ、と言って、

「俺、高所恐怖症やねん」

 と返した。

「高所恐怖症?だっせえの」
「おうおう。なんとでも言えや」

 大人の余裕を見せたのかふふんと鼻で笑う遙に、文也は一瞬むかっとした。だが次の瞬間、とあることを思いついて気を取り直した。

「おれなんか全然平気なのにさ」

 文也はにやにや笑いながら遙の横をすり抜け、非常階段の手すりに手をかけた。けんすいの要領で体を持ち上げ、数センチしか幅がない細い手すりに腰掛ける。
 ちらりと遙の方を見てやると、遙はギョッとした顔で文也を見ていた。
 予想通り。高所恐怖症の人間は、なぜか他人が高いところにいるのを見ても怖がるのだ。

「こら、危ないやろ。下りぃや」

 呼びかける声もいつもの覇気がない。

「大丈夫だよ。おれ、高いところけっこう好きだし」

 はるかみたいに弱虫じゃないし。無性に残酷な気持ちになって文也は続ける。無意味に足をぶらぶらさせてみたりもする。文也が腰掛けているのは二階部分なので、高さもけっこうある。もし落ちた場合はただでは済まないだろう。

「文也ぁ。危ないて」

 遙がもう一度呼びかけた。きつく眉根を寄せたその顔が、今までに見たことのない、むしろ何か苦しいのを我慢しているような顔だったので、文也もさすがに気が咎めた。
 気も晴れたのでおとなしく下りることにしようと、手すりを握った両手に力を入れたところで。

 文也の体はバランスを崩し、後ろに傾いた。

 周囲から重力が無くなったかのような感覚。

 背筋にぞっと悪寒が走る。

 落ちる、と感じてきつく目を閉じた次の瞬間。

 遙の両手が文也の両腕を掴み、文也は力任せに前方に引っぱられていた。
 
 一瞬の意識のブランクがあり、気づいたときには文也は床の上にいた。遙の腕の中にすっぽりと納まっている。どこかで打ったらしく手や足がじんじんと痛かった。
 遙の両手はまだきつく文也の腕を握りしめていた。

「……はるか?」

 きっとものすごい剣幕で怒られると思っていたのに、黙りこくっている遙が心配になって文也は呼びかけた。至近距離ではあるが、前髪と俯いた角度のせいでその表情は見えない。文也の声に応えるように、遙が大きく息を吸い込んだ。
 怒られる、と思った文也は身構えたが予想は外れ、ぼすっと音をたてて文也の小さな肩の上に遙の頭が落ちてきた。

「は、はるか?」
「ああもう……」

 文也の耳元、聞こえるか聞こえないかくらいの声で遙は呟く。少し震える声で。

「ほんまに……かんにんしてや……」

「はるか」

 文也は無意識のうちに遙の首元に手を回していた。なぐさめるようにぎゅっと首元を抱く。

「ごめん。……ごめんなさい」

 文也が小さな声で囁くと、少し遅れて、「うん」という遙の返事が耳に届いた。
 


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