それから数日の後。
 昼間のうちに鍵を開けておいたトイレの窓から、少年は夜の病院に侵入を果たした。
 どうしてもあの時計を壊したかったからだ。
 掃除用具入れに隠しておいたバットを取り出し、それを強く握りしめる。
 非常灯が照らす病院の廊下は青白くて不気味だ。
 少年は足音を潜めてゆっくりと移動し、そろそろと階段を上る。
 産婦人科は五階にあった。
 看護士とすれ違うのではないか、何かが出るのではないか……とひやひやしながらも、少年はやっとの思いで時計の前に到着した。
 暗い廊下に、かちこちと秒針の音が響く。
 少年は静かに、バットを握る手に力を込めた。
 ふと、彼の言葉が耳の奥で聞こえた。

『きみは歌が好きなはずだよ』

 少年を真っ直ぐに見て、真剣な瞳と声で言われた言葉。思わず手を緩めそうになる。
 あれからずっと頭の中を駆けめぐっていた。
 どうして彼はあんなことを言ったんだろう。なぜわかったんだろう。

(違う)

 歌なんて、音楽なんて嫌いだ。
 思い出した言葉を振り払うように頭を振り、少年は目の前の時計を見据えた。
 そろそろとバットを振り上げる。
 目を閉じて。
 それを振り下ろす。
 鈍い手ごたえはしなかった。何かが壊れる、派手な音もしなかった。
 バットを振り下ろそうとする力に逆らう圧力を感じて、少年は目を開けた。

「やめなよ」

 囁く声。
 少年が振り下ろしかけたバットを押しとどめていたのは彼だった。

「……ジャマするなっ」

 突然のことに少年はパニックに陥り、彼の手ごと振り下ろそうとバットに力を加える。しかしそれはちっとも動かない。

「くそ」

 半ば泣きそうになって、少年がさらに力を加える。はあ、と彼がため息をこぼした。そこへ。
 懐中電灯の白い光がさっと廊下を横切った。

「誰だ!?」

 誰かの――おそらく警備員の――声。

「やば」

 呟いたのは少年ではなく、彼だった。
 彼はバットごと軽々と少年を担ぎ上げると、一目散に廊下を走って逃げ出した。あっけにとられた少年が小声で叫ぶ。

「……おいあんた、どうするんだよ!?」
「いいからっ」



 いったん階段を無為に駆け上がった後、別階段で五階に下りるという過程を経て、彼と彼に担がれた少年はとある病室に入った。警備員を巻くのが目的だろう。

「おい、いいのかよ」
「うん、ここはね」

 と彼は答えて、どさくさにまぎれて取り上げた少年のバットを手の届かないところに置いた。
 少年は舌打ちしたくなる。しかし逃げようにもしっかりと腕を掴まれて身動きがとれない。
 彼が少年と目線を合わせ、声を潜めて尋ねてきた。

「どうしてこんなことするんだ?」
「……何が?」

 少年は目線を反らしてごまかそうとする。

「時計を壊そうとしたこと」

 それから、と彼はご丁寧に少年の目線の先に回り込んで、少年の目を見ながら続けた。

「楽器屋のショーウインドウに石を投げて割ったのもきみだよね?」
「なんで」

 驚いた少年は、身をよじって彼の手から逃れようとする。

「友達があそこで働いてるんだ」

 彼は少しだけ笑って種明かしをする。しかし手は離さない。笑いを消して、真面目に尋ねる。

「どうして?」

 ああもう、いらいらする。

「……嫌いだからだよっ」

 噛み付くように少年が答えた。
 その勢いに、一瞬彼の手が緩んだ。少年はその機を逃さず、彼の拘束から逃れて、ポケットからはさみを取り出した。
 それを構える。彼に向かって。

「あんたの歌のせいだ……あんたの歌でいらいらして、いらいらしてとまらなくなって」

 はさみの刃が鈍く光る。
 少年はもう、自分が何を言っているのかよくわからなかった。熱に浮かされたように言葉を続ける。

「知ってるんだ。はさみだって人を刺せるよな」

 あんたののどだって、おれは壊してやりたかったんだ。
 少年にはさみを突きつけられた彼はじっと、どこか悲しそうな目で、少年を見つめていた。
 それから銀色の刃を見た。そして言う。

「どうしていらいらしているのか知りたい?」

 少年が黙っているので、彼は続けた。

「それはきみが、歌が好きだからだよ」
「っ……」

 少年は苛立って、はさみを彼に近づける。
 彼は騒ぎ立てることも怯えることもしない。なめられているのか、と少年はさらに一歩彼に近づいた。

「なんでだよ!?なんであんた、おれが歌が好きだなんて言えるんだよ!?」
「だって」

 俺が歌ってる間、足でリズムとってたんだよ、きみ。

「え?」
「時々ハミングもしてたし。無意識だと思うけど。すごく自然にやってたから、きみの体には音楽が染み付いてるんだと思った――そんな人が音楽嫌いなわけがないでしょう?」

 ぽかんとした少年の顔を見て、彼は微かに笑った。
 そして突きつけられたはさみの刃を握り、それをゆっくりと下ろした。

「大好きなものを嫌いだと思い込もうとしたらストレスもたまるよね」

 諭すような、柔らかく優しい口調で言葉を紡ぎ、うつむいてしまった少年の顔を中腰になって覗き込んだ。

「おれは……歌なんて、歌なんて嫌いだ」
「うん。どうして?」

 彼は覇気の無くなった少年の顔を見ながら、穏やかに尋ねる。
 少年は顔を上げ、大きく瞳を見開いた。その瞳が揺れる。
 言葉にするのを躊躇うように目が泳ぎ、口がぱくぱくと動く。彼はじっと少年の言葉を待っていた。

「お母さんが、歌が好きで」
「うん」
「おれも……好きで」
「うん」
「でもお母さんはおれを置いていなくなった」

 楽しみにしていたミュージカルの公演。
 はしゃいで見ていた少年が気付いたときには、隣に母親はいなかった。
 死に物狂いで家に帰った。家にも母親はいなかった。どこにもいなかった。
 父親のいない少年を引き取る親族はいなかった。少年は施設に預けられた。

「歌も音楽も、お母さんも、おれを裏切った」
「……うん」
「でも、嫌いなのに」

 こらえきれず、少年がしゃくりあげた。

「大好きなんだ。あんたの言うとおりだ。どうすればいい?」
「うん」

 彼が泣きじゃくる少年を抱きしめた。背中を撫でて、なだめるように言う。

「大丈夫。大丈夫だから」

 どうしたらいいか、いっしょに考えよう?

 少年の手から力が抜け、はさみが床に落ちて冷たい音をたてた。



 夢の中で懐かしい歌を聴いた。

 なぜ懐かしいのか。本当はわかっていた。

(お母さんだ)

 彼が歌っていたのは、少年の母親がうたっていたのと同じ歌だったのだ。少年はやっとそのことを思い出す。そして目を開ける。

「……あれ」

 誰もいないはずなのに、そこには彼がいた。少年を見て穏やかに微笑みかける。

「おはよう」
「……おはよ」

 むくりと上半身を起こすと、どうやらレストランの中にいるらしかった。ざわざわした空気と暖かい照明の色。ずいぶん久しぶりだと思ってぼうっとしていたら、体にかけられていた白いジャケットを落としそうになって、慌てて掴む。屋上でよく見たやつだ。笑いながら彼が手を伸ばし、それを受け取った。
 あの後、少年が泣きつかれて眠ってしまったので、病院で寝かせるわけにもいかず、彼は少年を抱いて24時間営業のレストランへやって来たのだった。

「とりあえず朝ご飯食べる?」

 メニューを渡しながら彼が言う。

「……食べる!」

 元気良く答えてメニューを受け取った少年が、じっとデザートのページを眺めているのを見て彼は思わず笑い、

「朝ご飯。」

 と注意した。

「……」
「デザートはご飯の後」

 その言葉にぱっと顔を輝かせる少年に、彼は思わず噴き出す。

「なんだよ」

 いやいや、なんでもない。むっとする少年にそう答えて。

「もう一度言うね――おれの名前は、幡多広隆。きみの名前は?」



第二部に続く