舟は帆を張り、風が吹くのを待っていた。
Sing, A Simple Song
長い冬が終わり春が来て、おれたちは高校を卒業した。
どうすっかなあ、と呟いていた類は結局就職も進学もせず、テレビ局のアルバイトを続けていた。どうするかはもう少し考えるのだそうだ。
おれはというと、受けた大学にことごとく落ちて浪人生を始めた。ラーメン屋でアルバイトをしながら予備校に通う日々だ。
そういうわけでお互いにばたばたしていて、おれたちが久しぶりにゆっくり会おうという話になったころには、梅雨も明けて夏が始まろうかという季節になっていた。
「んでどうよ、最近」
おれは大盛りのとんこつラーメンの中に高菜とにんにくを大量に放り込みながら聞いた。
待ち合わせ場所はおれのバイト後にバイト先のラーメン屋だった。
「んー、ぼちぼち。そっちはどうよ」
「おれ?おれはねえ、進路を決めましたよ」
「へえ」
どんな?と無言で類が聞いてくる。
「うーんと」
若干気恥ずかしいなと思いながら、おれはラーメンをすすった。
「教育学部行って、先生になろうかなと」
「そりゃまた」
「変かな?」
「いや。今までにない選択肢だな」
「うん……卒業式にさ、顧問がギター弾いてくれたでしょ」
「ああ、担任な」
類の担任にして軽音同好会顧問の古典教師が、卒業式の後にギターの弾き語りをしてくれたのだ。前々から音楽好きなのかなとは思っていたが、流行りの卒業ソングをさらりと弾きこなす姿を見て、おれは正直顧問を見直した。
「あの後顧問が、『おまえらが文化祭でやってるの見たらやりたくなっちゃったんだよなー』って言ってくれてさあ。ずきゅーんと来ちゃったわけよ。おれ、単純だから」
ははは、とおれの隣で類が笑う。
「うん。いいんじゃないの」
「だろ?」
おれもにやりと笑い返す。
「そういうわけでおれは、卒業式で教え子にギター弾いてやるカッコイイ先生になるから。んで、お前はどうなの?」
呼び出したからには話があるんだろう。水を向けると、類はちょっと眉間にシワを寄せてしばらく躊躇っていたが、
「実は」
と話し始めた。
「俺も進路を決めた」
「うん」
おれは頷きながらずるずる麺をすする。
「音楽の専門学校に行く。んで、音響機材とか・・・作曲の勉強しようと思う」
「うん」
きっぱりと類は言った。その声の響きを、おれはずっと待っていたように思う。
「がんばれよ」
「そっちもな」
そう言ってふうと息を吐きだし、類はやっと目の前のラーメンに手をつけた。
「で、これはオマケなんだけど・・・」
ラーメンを食べつつ、類は財布の中から薄い紙切れを取り出した。
「俺が音楽やりたいって言ってたら、バイト先の人がバイト紹介してくれて。ピアノバーでピアノ弾く仕事なんだけど……何度か試しに弾かせてもらったら、気に入ってくれたみたいで。ちゃんと弾いてみる?って言ってもらえたので」
受け取ったそれはチケットだった。ピアノコンサートとカクテルを、というそっけない一文といっしょに、店の名前と時間が印刷されている。どうやらワンドリンクチケットらしい。
「ご招待」
「おっまえ……一番に言えよそういうことは!」
全然おまけじゃないだろ!とおれが本気でつっこむと、類はにやにや笑っていた。ひょっとして照れてるのか。
「今週末なんだけど、来れる?」
「絶対行く」
おれが即答すると、今度こそ本当に類は相好を崩した。
ピアノバーは木目調の壁と間接照明が落ち着いた雰囲気を醸し出す、かなり大人な感じの店だった。やや背伸びした気持ちになって、どきどきしてしまう。
類に「Tシャツとジーンズで来たら締め出しくらうぞ」と脅されたので、おれはシャツにズボン、細いストライプ柄のジャケットという珍しくフォーマルな格好だった。とっておきのデートのときに着ようと思っていた一張羅だ。そんな機会はまだないが。
飲み物は一応、アルコールじゃなくてジンジャーエールを頼んだ。
シックな雰囲気のせいか、お客の年齢層も高そうだ。若い客があんまりいないなあと思いながら店内を見ていたら、ぱっとそいつが目に入ってきた。
少し離れたテーブルに座っている、まだ若い男だ。歳はおれと同じくらいだろうか。ひょっとしたら歳のわりに童顔なだけかもしれないが、それにしてはおれと同じくらいこの店から浮いているのでやっぱり若いのだろう。
そいつが周囲から浮いて見えるのは若さのせいだけではない。おれと同じく連れがいないせいでもあるが、さっきから店の奥のステージをじーっと見つめているせいだ。まだ暗いそこには体育館にあるようなグランドピアノが鎮座している。そしてあと5分もすれば類が出てくるはずだ。
照明が薄暗いのと、距離があるせいで表情までは読めない。変なやつじゃないといいけど、と俺は思った。
ほどなくして照明がぐっと暗くなり、その代わりにステージが白く照らされた。
袖から黒いスーツに白いシャツを着た類が現れ、深く一礼する。ぱらぱらと拍手が起きる。おれも拍手をしながら、お前それじゃ喪服だよと思わず心の中でつっこんだ。
今度いっしょに服を選びに行かねば。類には遊び心というものを教えてやらねばなるまい。
類はピアノの椅子に腰掛けると、大きく深呼吸をひとつして、鍵盤の上に指を落とした。
最初の一音が鳴る直前に、そういえば類の音を聞くのは文化祭以来だな、なんておれは思った。
相変わらずの、くにゃんと曲がるような、波打つような不思議な音色は健在だった。ピアノの方が音のイメージが硬いせいか、波打ってはどこかにぶつかって反射して跳ね返ってくるような感じがする。
その独特の「類の音」で、おれでも知っているようなクラシックの定番曲を弾き、ジャズナンバーを弾き、古い洋楽を弾き、日本のポップスを弾く。去年の文化祭で演奏した曲もひとつ。ニクイことをしてくれる。
楽しそうな顔してるじゃん。と思いながら、おれは頬杖をついて久しぶりの類の音楽を聴いていた。
最後に誰もが一度は聞いたことがある古い洋画のテーマ曲を、きらきらした切ない音で弾いて、類は演奏を締めくくった。
店内から大きな拍手が湧き起こる中で、類は椅子から立ち上がり一礼した。
おれも力一杯拍手をしながら思い出していた。最後の、あの歌は知っている。
梢ちゃんが好きだった歌だ。
おれがじーんとした気分に浸っていると、がたん!という拍手以外の大きな音がした。
思わずそちらの方を見ると、さっきの若い男が椅子から立ち上がったところだった。スタンディングオベーションというわけでもなさそうだ。だがそいつの目がきらきら輝き、ものすごく嬉しそうな顔をしているのが見えた。
おれはそいつが「見つけた!」と言うのを聞いたような気がした。
そしておれが見ている前で、そいつは素早い動きでステージに走り寄って行った。
おれは直感した。
なんだかわからないけど、今、風が吹いた。風が動いたと。
そしてそれはひょっとしたら、類がずっと待っていた風なんじゃないかと。
そいつは誰かが止める間もなくステージに飛び乗ると、袖に引っ込もうとしていた類の腕を必死の形相で掴んで引き留めた。突然のことにお客も店の人も唖然として事態を見守っている。
「あんた、何?」
類がものすごく困惑した顔をしている。ああ、やっぱり知らないやつなんだな。
「あんな!」
男が声を発した。関西のなまりがあるしゃべり方だ。
「俺は、喜多野遙っちゅうもんやけど、」
類を真っ直ぐに見つめて、男は――遙はこう言った。
「あんた、俺といっしょに音楽やらん!?」
fin. or next story