無限図書館U<完全版>



僕は全速力で家までの道を走った。
河野の言ったとおり、出兵前の最後の帰省と考えればこの不自然な時期も納得がいく。
ひょっとしたら、兄が本になりたいと言った理由も――僕は家に帰り着くと挨拶もせず兄の部屋の襖を開けた。
そこに兄はいなかった。
机の上で何かの手紙が風に吹かれてかさかさと音を鳴らしているのが気になった。
拾い上げて読んでみると、それは予想通り、出兵を告げる手紙だった。
ここにいないならば、兄がいる場所はひとつしかない。
僕は手紙を放り投げて、一直線に走り出した。蔵に向かって。
動きの鈍い扉を力任せに押し開くと、そこは案の定、図書館に繋がっていた。
「兄さん!」
僕は叫ぶ。
玄関ホールの中央には兄と、それから少女が立っていた。
「昴。ああ、やっぱり気づいてたのか」
僕に気づいて振り返り、兄は穏やかな笑みを浮かべる。
今朝までの微妙な緊張感は消え、ほんとうにいつもの、僕の好きな兄だった。
「あんまり見られたくなかったんだけどなあ……でも仕方ないか。さあ、宙。ぼくを本にして」
兄は彼女を宙、と読んだ。それが彼女の名前なのだろうか。問い返す余裕もなく、僕は駄目だと叫ぼうとした。
しかし意外な言葉を聞いて、僕の喉は声を出すのを止めた。
「……嫌よ」
そう言ったのは彼女だった。彼女は困ったような怒ったような顔をしていた。
初めて見る顔だ。
彼女は硬直している僕を睨んで鋭く叫んだ。
「この役立たず!」
「……はあ?」
「何のために私があそこまで話したと思ってたのよ?あんたが曜一郎さんを止めてくれると思ってたからじゃない!」
逆上する彼女を前にして、兄はあははと笑っていた。いや兄さん、笑うところじゃないし。
しかしそれはつまり――つまり。
「……ごめん」
「ああもう……とにかく、私は曜一郎さんを本にするつもりはないの。帰って。今すぐ。そしてもう二度と来ないで」
「それはだめだよ、宙。だってもう決めたからね」
ふふ、と兄は不思議な微笑を浮かべた。
「昴!」
兄は大声で僕の名を呼ぶ。僕は反射的に返事をする。
「ごめんな。ぼくは昴の自慢の兄さんでいたかったし、父さんと母さんの期待にも応えたかった。
でもよく考えてくれよ。虫一匹ろくに殺せないような男が、人を殺せるわけないだろう?」
そう言って兄は笑う。
「父さんと母さんを頼んだよ。じゃあ、元気でな」
そう言って兄は背を向けた。もう振り返らないつもりだと、僕にはわかった。
「さあ、宙」
「嫌よ。嫌だって言ってるのにどうしてわかってくれないの?」
やわらかく促す兄に、彼女は嫌々と首を横に振る。
自信満々で飄々としていた彼女が、今は聞き分けのない小さな子どものようだ。
「そう?でも宙がやらないのなら、ぼくがやるよ」
不思議な自信に満ちた声に、彼女が顔を上げる。
兄は顔を上げ、虚空に向かって――目の前に広がる図書館に向かって、叫んだ。
「おーい、図書館!ぼくを本にしてくれ!」
彼女がさっと青ざめるのがわかった。
「彼女はこう言っているが、ぼくは本になりたいんだ。拒みはしないだろう?」
朗々と響く兄の声。
だめ、やめて、と彼女がうわごとのように繰り返すのが聞こえてきた。
「だけど一つ、条件がある。彼女を、宙を自由にしてやってくれないか?」
僕は驚いて兄を見つめた。彼女も同じ表情をしている。
「彼女はまだほんの子どもじゃないか。無理にここに縛り付けなくてもいいだろう?どうか彼女を自由にしてやってくれ」
「嫌よ!私はそんなこと望んでいないわ!」
半狂乱で叫び声をあげる彼女を見て、兄は微笑んだ。見透かしたような笑み。
僕と彼女の目の前で、兄の体が金色の光に包まれ始めた。それは承諾の合図なのか。
兄は静かに目を閉じる。その横顔はとても穏やかだった。
彼女が何か叫んでいるのは聞こえていたが、僕はただ呼吸も忘れて兄を見ていた。
やがて目が眩むような強烈な光が走り、目を開けたときには兄の姿は消えていた。
彼女がぺたんと床に座り込んでいるのが見える。
僕はふらふらと歩いて兄が立っていた場所に辿り着き――そこに一冊の本が落ちているのを見つけた。
拾い上げて眺める。綺麗な深緑の表紙をした、豪奢な装丁の本である。僕はため息をついた。
「本になったのね」
彼女がぽつりと呟く。心ここにあらず、といったようすだ。
「……兄さんの望みは叶ったの?」
僕が尋ねると、彼女は静かに首を横に振った。
「ここにはどうしても管理人が必要だもの」
「管理人って何をするの」
「ここを訪れた人間を本に変える。ここの本を管理しながら、本になった人間を読みながら――永遠に生き続ける」
「それ、兄さんにも話した?」
彼女が頷く。なるほどね。
「あんたには荷が重いと思ったんだろうな。優しい人だから」
僕が言うと、彼女はうつむいてしまった。肩が震えているのがわかる。僕はもう一度ため息をついた。
「あのさ。あんたは自分を本にすることはできないの?」
彼女が顔を上げた。ぽかんとした表情で僕を見上げる。頬に涙の筋が見える。僕は彼女に兄さんの本を手渡しながら、言った。
「あんたも本になればいい。そしたらずっと兄さんといっしょにいられるんだろう?」
彼女が口を開けた。何かが音になる前に、どおんと地響きをたてて大きく図書館が揺れた。
「地震?」
「違う。怒ってるのよ」
「何が?」
「図書館が」
馬鹿な、と思ったが人間を本にするような図書館である。怒って揺れたりしても不思議ではないような気がする。
彼女は小刻みに震える図書館を悲しそうな表情で見上げていたが、やがてこう言った。
「だめよ。私が本になったら、管理人がいなくなる」
「要は管理人がいればいいんだろう?じゃあ、僕がなる」
彼女はきょとんとした顔で僕を見た。そして言った。
「馬鹿じゃないの?」
「あんた、さっきから人のことを馬鹿とか役立たずとか言って……怒るぞ」
「だって、永遠にここで生き続けるのよ?たったひとりでよ?もう二度とここから出られないのよ?」
「いいよ」
僕は自分でも不思議なほど、迷いもせずに即答した。
「だからあんたは兄さんと一緒にいきなよ」
泣きやんだ少女はまじまじと僕の顔を見つめて言った。
「……いいの?」
「だからいいって」
僕はひとつ息を吸ってから、言った。
「僕は兄さんが大好きだから、いいんだよ」
僕は口の端をつり上げた。無理矢理だったから、泣き笑いのような表情になったと思う。
無視するな、とでもいうように図書館がひときわ大きく揺れた。
「うるさいな!」
と僕は虚空に向かって怒鳴った。
「だいたい兄さんを勝手に本にしたのはそっちだろう!そのくせ兄さんの望みは叶えない!このくらい大目に見てくれてもいいだろうが!」
がたがた言うな!と大声で怒鳴ると、しばらくして揺れは止まり、図書館はもとの静寂を取り戻した。
「よし」
「……すごいわ」
呟いた声に振り返ると、彼女が笑っていた。初めて見る、花が開くような笑顔だった。
「ありがとう。ほんとにありがとう」
彼女が僕を見て言い、それから本を抱きしめた。彼女の体が金色に光る。彼女が光に溶けるように消えていく。
「あのね、」
最後に少女が僕を見て微笑んだ。
「何」
「曜一郎さんがあなたの自慢話ばかりするのよ。可愛い弟なんだって。だからちょっと意地悪したの」
ごめんなさいね、という言葉だけを残して彼女の姿が見えなくなった。僕は苦笑する。
彼女を呑み込んだ金色の光が膨張する。
凶暴な光の渦の中で僕は懸命に目をこらし、光の中心を掴んだ。確かに、しっかりと。
光が収まると、僕の手の中には澄んだ深い青色の表紙をした、一冊の分厚い本があった。
「二冊になるのかと思ったら」
ひとつになったのか。と僕は呟いた。
ほんの小さな声だったのに、静かな図書室の中には大きく響いた。
僕は本を両腕で抱きしめるように持つ。目を閉じて顔を上げ、耳をすませると、静寂がしんと体の奥に染み渡るのを感じた。
ゆっくりと深呼吸して目を開ける。
足下には深緑の絨毯。正面には豪奢な作りの木製の扉があり、広い玄関ホールを囲むように飴色の本棚が並ぶ。
見上げれば頭上には階段が続き、どこまで上ってもそこには本棚が並んでいる。
過去から未来までありとあらゆる本を備え、望むなら人すらも本に変えてしまう図書館。
僕はここで無限の時を生きる。
でも後悔はしない。
ひとり静かに微笑して、僕は永遠の暇つぶしをするべく、手にした本の最初のページを開いた。




Fin.


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さて、無限図書館Uです。
TもVも手直ししてないのにUだけ完全版が出てしまいましたわはは。
昴の兄ラブ!っぷりが一部の友人(兄弟好き)に大ウケでございました(笑)
時間軸としては(未公開の)V→U→Tなのですが・・・早めに手直しして上げようっと。
三部作で止めるつもりだったのですがなかなか内輪ウケが良いので(笑)Wも書くつもりです。
あとは宙(そら)が管理人になるまでの話とか。
どぞ、お楽しみに?