ぼくの通学路沿いには大きな川があり、朝と夕方、ぼくはそこを通る。
 最近の放課後は、川辺でぼーっとするのがぼくの日課になっていた。
 だからすぐに、変な男の存在にも気づいたのだ。

 ぼくが夕方近くに川辺にやってくると、そいつはいつも文庫本を読んでいる。ときには座って。ときにはごろんと寝転がって。
 しかしそろそろ春めいてきたとはいえ、まだまだ朝晩は寒いのだ。しかも川縁とあってはなおさらだ。どう考えてもおかしい。
 冬用のコートにマフラーという重装備で本を読むくらいならば、お店に入るなり何なりしてもっと暖かいところへいけばいいのに。

 学校の先生はあやしい人を見かけたら警察に連絡しなさいと言っていたけれど、ひょっとしてぼくは交番に走ったほうがいいんだろうか。

 そう思いながら、今日も本を読んでいる変な男に目をやる。
 するといきなり、男が本から顔を上げた。ぼくとぱっちり目があった。

「うわっ!」

 ぼくは思わず叫び声をあげてしまう。男に背を向け、走って逃げようとしたところで。

「あ、待って!」

 呼び止められた声が意外にやさしくて、ぼくは足を止めて振り返った。
 男は本を閉じて、にこにこ笑いながらぼくに話しかけてきた。

「ねえ、もし暇なら相談に乗ってくれない?」

 ぼくが男に警戒の眼差しを向けると、男はひらひらと何も持っていない両手を振って、

「だいじょうぶ、あやしいものじゃないよ」

 と言った。

「……あやしいやつじゃないって言うやつが一番あやしいんだぞ」

 ぼくは逃げ腰になりながらも、頑張って反論する。

「あ、説得力ない?」

 男は人差し指で自分を指さして言う。ぼくはこくこくと頷いた。

「ほんとにあやしいものじゃないんだけどなー。困ったなあ」
 
 男は本当に困った顔で首を傾げている。ぼくはなんだか気が抜けてしまった。
 体の力を抜いて男に近寄り、その隣に座った。

「あ、信じてくれた?」

 いや、と僕は首を横に振る。

「信じてないけど、おまえ弱そうだし」
「ああ、弱そう……そうかあ」

 男はとほほ、という顔をした。

「まあいいや。じゃあちょっと悩み相談に乗ってよ。おれ、旅人なんだけどさ」
「たびびと?」

 ぼくは驚いて聞き返した。そんな職業は初めて聞いた。

「旅人って何するの?」
「旅をするの。日本全国津々浦々」
「日本だけ?世界は?」
「それはこれからの課題ということで」

 男はそう言って苦笑いをした。

「でさ、悩みというのが。職業上、おれは荷物を増やせないんだよね。服も季節ごとに古着屋で売り買いして、本も異動先で古本屋巡って売り買いして、というわけだよ」
「へえ」

 そんな変な暮らしをしている人がいるのか、とぼくは感心した。

「ところがだ。このコートがだね」

 そう言って男は自分が来ているコートの端をつまみ上げた。焦げ茶色のコートはシンプルなつくりだったが、とても手触りが良く温かそうだった。

「この冬の初めに買ったんだけど、あったかくてすっかり気に入ってしまって、どうにも手放すのが惜しくなってしまったんだよねえ」
「じゃあ、持っとけばいいじゃん」
「だから荷物は増やせないんだってば。次の冬までの間、ずーっとカバンに入れておくとかさばるしジャマでしょう?重いし」
「じゃ、手放せば」
「それも惜しいんだよねえ……」

 はあ、と男はため息をついた。ぼくはうーんと唸ってしばらく考えた。

「じゃあ、家に置きに帰れば?」
「家、ないんだ」
「まじ?家くらい持っとけよ」
「うん、まあおれもそう思う……」

 はふ、と男がため息をついた。ちょっとかわいそうになって、ぼくは次の案を出す。

「じゃあ、預かってくれる人は?家族とか」
「家族は無理」
「無理なのかよ。じゃ、彼女は?」
「いない」
「じゃあ友達!」

 やけになったぼくがそう叫ぶと、男は目を丸くし、ぽんと手を叩いて言った。

「あ、それだ」
「……じゃ、友達に預かってもらえよ」
「うん、そうする。宅急便で送るわ。ありがと」

 悩み事が解消されたからか男はにこにこ笑顔になった。
 なぜそれに気づかなかったんだとぼくは少々呆れながら、よかったなと一応言っておいた。
 男はうん、とひとつ頷きこう続けた。

「じゃあお礼に、きみの悩みを聞くよ」
「……は?」
「だって最近、毎日ここに来てため息ついてたでしょう。日が落ちるまでここから動こうとしないし。なにか悩み事でもあるのかなと思って」

 にっこりと微笑まれて、ぼくは初歩的なことに気が付いた。
 ぼくが相手を見ているということは、相手からもぼくが見えているということ。相手もぼくを見ている可能性があるということ。
 うかつだった。

「ほら、おれは行きずりの旅人だし、きみの話を誰かに言いふらしたりするわけでもないからさ。話したら楽になるかもよ?」

 ぼくは困り顔で男を見上げた。男はやさしく目を細めてぼくを見ていた。
 その顔が父さんや母さんより、学校の先生より誰よりもやさしそうだったので、ぼくは話してみることにした。

「なにがあったってわけじゃないんだけど」

 ケンカしたまま仲直りできていない友達のこと。
 クラスにいるいじめっ子のこと。
 テストの点が悪くて怒られて、腹が立って母さんとケンカしたこと。
 最近言い争いが多くなった父さんと母さんのこと。
 男はうんうん、と相づちを打ちながらぼくの話を聞いてくれた。

「すっきりした?」

 ぼくが話が終わったのを見計らって男が聞く。
 どのくらい話していたのか、日が落ちそうになっていた。

「……うん」

 でもすっきりしたからといって、何かが解決したわけじゃない。
 不満そうな顔をしている僕を見て、男が言った。

「『錨を持つといい』」
「怒り?」
「いや、怒る方じゃなくて」

 こういうの、と言いながら男は指を動かし、空中に図形を書いた。

「ああ、水兵さんの服についてるやつ!」
「うん、それそれ」

 男がにこにこして頷いた。

「あれはね、船が勝手に流れていかないように沈めるおもりなんだよ。だからきみも錨を持つといい。きみ自身が、どこかに流れていかないようにね。揺るぎないきみであれば、今は腑に落ちないことも、いつか許せるようになるんじゃないかな」

 よくわからない。
 ぼくが首を傾げると男は目を細めて笑い、

「ま、おれも受け売りだからねえ」

 と言って、手元に伏せてあった文庫本を拾い上げた。
 タイトルは『キネマ氏の航海』。

「……やっぱりわかんない」

 ぼくがむっとして言うと、男はぼくの頭の上をくるくるとなで回した。

「きみにはまだ少し難しいかな」

 子供扱いされているようで悔しくて、ぼくは男の手を振り払った。
 おや、という顔をした男を、睨みつけて言う。

「『大人になったらわかる』って言うんだろう?」

 大人はいつもそう言う。
 しかし男は気分を害した様子もなく、穏やかにこう続けた。

「違うよ、逆」
「逆?」
「それがわかったときが、大人」

 ふうん、と僕は呟いた。それは新説だ。そしてなかなか、面白い。
 男はもういちど僕の頭をくるんと撫でてから、立ち上がって言った。

「さあ、帰ろうか。きみの家の前まで送っていくよ」

 気づくと日はとうに落ちていた。辺りは薄暗くなり、冷たい風が吹いている。
 男がぼくに手を伸ばす。僕はその手を掴んで立ち上がった。



「ああでもひとつ、きみにアドバイス」

 家の前まで送ってもらい、別れ際に男は言った。

「友達とは早く仲直りしたほうが良いよ」
「……わかった」

 僕は頷く。玄関の扉が閉まる最後の瞬間まで、男は笑って手を振っていた。






友人に「ドラ○もんとの○太くんみたいだね」と言われましたが、確かに(笑)