がたんごとん、がたんごとん、がたんごとん。

 繰り返す単調なリズムと、微かな揺れ。
 薄く目を開けると、視界は真っ白だった。眩しい。
 一瞬、天国に来たのかと思った。

 がたんごとん。

 だがすぐにそんなことはないと思い知る。視界が陰って、正常な世界を映し出す。
 向かいの座席と、薄汚れた窓。微かに揺れ続ける黄ばんだ広告と、つり革。ここは電車の中だった。
 朝、いつも通り制服に着替えて、ご飯を食べて家を出て。いつも通りに電車に乗った。ただいつもの駅で降りなかっただけの話だ。
 腕時計を確認すると、そろそろ三時間目の授業が始まる時間だった。
 ごうっという音がして、車内が蛍光灯の白い光に包まれる。トンネルに入ったのだ。
 何の気なしに正面を見ると、真っ黒な窓に、わたしとそれからもうひとり人影が映っていた。
 わたしはぎょっとして横を見た。これで誰もいなかったらホラーだが、私から透明人間五人分くらい離れたところに男がひとり座っていて、俯き気味に文庫本を読んでいた。
 次の瞬間、世界が急に明るくなってわたしは反射的に目を閉じた。トンネルから抜けたのだ。
 この瞬間に男が消えてしまったら面白いのにな、と思いながらゆっくりと目を開ける。
 残念ながら、男はちゃんとそこにいた。
 思わずため息が零れた。男から目を逸らす。
 ここにはわたししかいないと思っていたのに、がっかりだ。
 人のいない車両を探せばあるかもしれないが、立って歩くのも面倒くさい。

「どこまで行くの?」

 横手から声がした。あの文庫本男だ。わたしは返事をしない。目も合わせない。
 しばらくの間、わたしは全身を緊張させて押し黙っていたが、男から二言目が発されることはなく、代わりにぱらりとページをめくる音が聞こえてきた。興味を失ったらしい。
 ほっとして体の力を抜き、座ったままずるずると体を斜めにして、座席に体重を預ける。
 だらしなく足を伸ばし、座席の背もたれの上部に首を乗せて天井を見上げる。自然と口が半開きになった。
 スカートがシワになる、と一瞬思ったがまあ別にいい。

 がたんごとん。ぱらり。がたんごとん。ぱらり。

 単調な繰り返しはどうしようもなく退屈で、単純に眠気を誘う。わたしは目を閉じた。
 深い深い眠りにつきたい。二度と覚めないほどの眠りに。
 しかし差し込む光のせいで瞼の裏は不自然に明るく、それはとても叶いそうになかった。




 がさごそという不自然な物音に目を覚ました。
 腕時計を見ると、まだ一時間ほどしか経っていなかった。目覚めたばかりの目に日の光が眩しい。
 妙な音の源を探して首を横に向けると、文庫本男とまともに目があった。
 げっ、と思ったがもう遅い。
 文庫本男は菓子パンを口にくわえている。さっきのがさごそという音は、パンの袋を開いた音だったらしい。
 目を合わせたまま硬直している私に、

「あ、食べる?」

 文庫本男はのんびりと聞いてきた。

「お腹空いてない?」

 わたしが黙っていると、文庫本男は傍らの紙袋を手にとって近づいてきた。
 反射的に退こうとするが、わたしが座っているのは長座席の端っこである。立ってどこかに行く他、逃げ場はない。
 わたしの警戒心など意に介さず、すぐ近くに座った文庫本男は座席の上に、紙袋の中身を無造作にぶちまけた。
 丸っこいパン。コロネ。メロンパン。コロッケが挟まれたパン。焼きそばパン。その他諸々。

「パン屋のおじさんにいっぱいお餞別もらっちゃって、気持ちは嬉しいんだけどひとりじゃ食べきらないんだよね。嫌いじゃなかったら、どうぞ」

 文庫本男はじっとわたしの目を見て言ってくる。わたしは少々呆れた。
 あれほどほっといてくれオーラを出していたというのに、性懲りもなく話しかけてくるなんて。この人は何を考えているのだろう。
 しかしわたしは最終的に、文庫本男の視線と空腹に負けた。

「……いただきます」

 小声でそう言うと、男は嬉しそうに笑った。




 各種菓子パンと男が取り出した水筒に入っていたコーヒーで、奇妙な車内ピクニックが始まった。
 ものも言わずに食べ終わり、これも男が取り出したプラスチックのコップに、食後のコーヒーを注いでもらう。

「どうもありがとうございました」
「いえいえ。どうせひとりじゃ食べきれないし」

 にっこりと笑って男が言う。じゃあこれでさようなら、というわけにはいかないだろう。
 自分で選んだこととはいえ、面倒なことになった、とわたしは心の中でため息をつく。

「きみはどこまで行くの?」
「……さあ、どこまででしょう」

 男の問いを、わたしはごまかした。ちょっと考えてみたけれど、自分がどこに行くのか、どこに行きたいのかすらわからなかった。

「あんたは?」
「え?」
「あんたはどこまで行くの?」

 私の問いに、男はちょっと遠くを見て、笑った。

「どこまででも」

 歌うように続ける。

「どこまででも行くよ、おれは。旅人だからね」
「旅人ですか」
「それは嘘くさい、と思っている顔だ」
「そんなことないですよ」

 ほんとうは、ぜったい嘘だと思っていたけれど。
 わたしがむきになって言い返すと、文庫本男は楽しそうに声をあげて笑った。




 あっさりと会話は尽きた。文庫本男は隣でまた本を読み始め、満腹で眠くなったわたしはうとうとし始めた。
 終着駅まではまだしばらく時間があるはずだった。
 瞼の裏に白い光が灯り、次の瞬間には陰る。また灯る。陰る。光と陰が瞼の裏でくるくると回る。
 それに合わせて電車が揺れる。
 がたんごとんがたんごとん。
 単調なその繰り返し。
 ふっと意識が覚醒して目を開けると、窓の向こうはちょうど海にさしかかるところだった。
 秋にしては日差しの強い日で、午後の太陽の光が水面に乱反射していた。きらきらと眩しい。
 あまりの目映さに一瞬目を閉じて、また無理矢理開いた。凶暴な程の光が、車内一面に差し込んでいる。
 白く強い光に、自分の手のひらの形がよく見えない。
 昔ビデオで見た理科の実験を思い出した。対象に強い光をたくさん当てると、ついには見えなくなってしまうというアレだ。
 見えなくなる。わたしがいなくなる。光に溶ける。

「だいじょうぶだよ」

 横手から穏やかな声がした。
 わたしの隣には文庫本男が座っていた。男の輪郭も消えそうにあやうい。その黒い髪が強い光のせいで金茶色に透けて見える。
 男は手に持った文庫本で顔を覆い、そのせいでくぐもった声で言った。

「きみはそこに、いるよ」

 ごうっという音がして吸い込まれるように視界が暗転した。私は目を閉じた。




 がたんごとん、がたんごとん。
 単調な音。次に目を開けたとき、世界は平穏だった。
 雲が出たのか日差しは弱まり、車内には陰が差していた。男は相変わらず文庫本を読んでいる。
 ――白昼夢でも見たのだろうか。

「暇?」

 文庫本男が本から顔を上げずに聞いてきた。

「暇なら本読む?」
「……読む」
「ん」

 少し悩んでからそう答えると、男は本を置いて、荷物の中から数冊の文庫本を取りだした。
 『キネマ氏の憂鬱』『キネマ氏の写真館』『キネマ氏と銀河鉄道』――どれも同じ作者の同じシリーズだ。

「好きなの?」
「追いかけてる。このシリーズ、今百二十三巻出てるんだよねえ……」

 はふ、と男は半ばうんざりしたように、しかしどこか楽しそうにため息をついた。

「それは?」

 わたしは男が読んでいた本を指さして聞く。男が出してくれた中にはどうも惹かれるタイトルがなかったのだ。
 男は座席の上に伏せたそれを拾い上げて表紙を見せてくれた。

『キネマ氏の眠たい午後』。

 それは今の私の気分にぴったりのように思えた。

「それがいい」
「ん、いいよ」

 わたしが反射的に言った言葉に男はあっさり頷き、はい、とわたしにその本を手渡した。

「え、いいの?」

 てっきり駄目だと言われると思ったので、そんなにあっさり渡されると逆に戸惑ってしまう。

「うん。だってまたいつでも読めるから」
「……じゃ、ありがたく借ります」
「どーぞ」

 男は微笑み、また別の一冊を手に取った。
 わたしは最初のページをめくりながら、その仕草を盗み見る。変な男だ。

「ねえ、なにも聞かないの?」
「なにを?」
「学生がこの時間に、こんなとこにいたら変でしょう」
「それを言うなら、いい大人がこの時間にこんなとこにいても変でしょう。しかも若い女の子をナンパしてるし」
「ああー、たしかに」
「ね」

 言って男は笑う。

「それに、ほんとうはなにも聞いてほしくないんでしょう?」
「うん」

 わたしは頷いた。ほんとうはそうだ。
 今はだれも、わたしになにひとつ聞いてほしくなかったし、言ってほしくなかったのだ。




 借りた文庫本を半分ほど読んだところで終着駅に着いてしまった。
 男が電車を降りる。私も降りる。電車の行き先表示を見ると、ここで電車は折り返すらしいことがわかった。

「あんたはこれからどうするの?」

 わたしはホームに降りた男に聞いてみた。辺りはすっかり夕暮れ色になっている。

「夜行列車に乗る」

 明瞭な答えが返ってきた。そのためにここに来たのだと男は笑った。

「きみは?」

 男はまっすぐにわたしを見て、聞いた。

「――帰る」

 気が済んだから。私が答えると、男は目を細めて頷いた。

「そう。気をつけて」
「うん、ありがとう。あんたも気をつけて」

 そういえば、と文庫本を返そうとすると、男は静かに首を横に振った。

「よければあげるよ。帰りも暇でしょ?」
「……うん。じゃあありがたく貰います」
「ついでにこれも」

 そう言って男はパンが入った紙袋を差し出した。中身は最初に比べてずいぶん減ってはいたが。

「いいの?」

 わたしが聞くと、男は頷いて言った。

「おれはこれから夕飯を買うし。何か飲み物買って乗り込んだ方が良いよ」
「じゃ、そうする」




 発車を告げるベルが鳴り、電車のドアが閉まった。私は慌てて席につき、窓を開ける。乗客はわたしひとりだった。
 ホームに立つ男に向かって、わたしは最後にもう一度問いかけた。

「ねえ!あんたはどこまで行くの?」

 がたん、と大きく音を立てて揺れ、電車がゆっくりと走り出した。

「どこまででも行くよ。おれは旅人だもの」

 男は笑って、楽しそうに同じ答えを返した。
 だから、と言って男はわたしに手を伸ばす。

「いつかまた」
「うん」

 わたしも男に手を伸ばす。一瞬だけ握手を交わし、手は離れた。
 男が遠ざかっていく。男は笑顔で手を振っている。わたしも力一杯手を振り返した。


 いつかまた。








 女の子は「Stand〜」の千夏です。家出の話。